2014年5月12日
UN Photo/Lois Conner
本稿は、国連安全保障理事会について読者の理解を深めることを目的としたシリーズの第2弾です。最初の記事では、国連大学のピーター・ナディン氏が国際政治における最上の討議の場である国連の起源、権限、手段や活動内容などについての概要を紹介しました。シリーズ第2弾では、国連安全保障理事会の限界や、広く浸透している誤解について述べ、ここからさらに現行理事会の改革案についてのシリーズ第3弾へとつながります。
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「国連は単なる理想主義的な慈善家たちの産物ではない。国連は無慈悲なほど現実的な組織だ。いずれ人々が国連の意義を明白に理解する日がやって来る。心配することはない。その日はいつかって? それは人々が、単純に人々が、国連をピカソの奇妙な抽象画として捉えるのをやめて、自分たち自身が作り上げたスケッチとして見るようになった時だ」
この1955年の率直な発言によって、ダグ・ハマーショルド元国連事務総長(1953~1961年在任)は国連の性質を加盟国組織として要約している。すなわち、国連とは、加盟国に貢献するために加盟国によって作られ、加盟国の協調によって限定される組織だ。こうした制約の理解を深めることが、本稿の目的である。
人々が国連安全保障理事会を批判する場合、理事会の本質に関する誤った概念に基づいて批判している。彼らは理事会に、理事会ではない何かであることを期待しているのである。
安全保障理事会は次の存在ではない:
安全保障理事会は、集団安全保障という概念の具象ではない。集団安全保障の古典的定義として考えられている叙述の中で、イニス・クロード氏は次のように集団安全保障を定義している。
「国家に対する攻撃をくじくために必要なあらゆる種類(道徳的、外交的、経済的、軍事的)の圧力を行使する決断を、被攻撃国以外の実質上全ての国が公然と下すことによって、国家による攻撃的な戦争の危険に応酬するという国際システム」
この定義に安全保障理事会を照らし合わせた場合、理事会が集団安全保障の制度であると判断することはできない。理事会は、1加盟国に対する攻撃が全加盟国に対する攻撃である(これは集団安全保障のスローガンだ)と断言することはできず、また、そのような攻撃が自動的に理事会の反応を引き出すのだとも断言できない。上記よりも厳格ではない定義に照らし合わせた場合、理事会は集団安全保障制度と判断できるかもしれない。
しかし、このように曖昧な定義は、集団安全保障という本質的には明白な概念を希薄にし、不明瞭にするため、ほとんど役に立たない。この用語は保証された自動性を暗示している。そして、この用語が国連や安全保障理事会の周辺領域で引き続き使用されていることが国連というブランドを傷つけている可能性がある。国連ブランドは現実的な期待に基づいて築かれるべきである。
むしろ、安全保障理事会は選択的安全保障の具象として見るべきである。安全保障理事会を表すのに適したこの用語は、アダム・ロバーツ氏とドミニク・ザウム氏が2007年の共著『Selective Security: War and the UN Security Council Since 1945(選択的安全保障:1945年以降の戦争と国連安全保障理事会)』の中で使用した新語である。1945年以降の理事会の長い記録をひもとくと、理事会は特定の状況では介入の決定を下し、また別の状況では介入に反対の決定を下してきたことは極めて明らかだ。これは理事会の特権である。理事会は、何が国際平和と安全保障に対する脅威であり、何がそうではないかを解釈し、決定する自由裁量権を有する。理事会に本来備わっているこうした選択性には、理事国、特に拒否権を発動できる5常任理事国(P-5)の政治的意志や利害が相対的に表れている。従って、要約すると、理事会はすべての状況に対して必ず行動を起こす義務はなく、そのような行動は期待されるべきではない。
第二に、理事会は、利害が絡まず、政治的影響を受けない制度ではない。そもそも理事会は政治的団体であり、集団的意志決定を形成する政治的プロセスに恩恵を受ける存在だ。政治的意志の相対的レベルと理事国の多様な国益は、政治的交渉と取引というプロセスに流入され、そこから導き出された結果が理事会の集団的決定、すなわち決議あるいは議長声明である。したがって、全ての決定は理事国の重複した利益を反映しており、理事国の中で達した合意のレベルと特質も反映している。
このため、協調が可能となるのは、理事国の国益に相応の整合が取れる場合に限る。つまり、ある特定の国々は類似した見解を共有し、戦略用語で言えば、ある程度まで文化的調整が取れている一方で、そうではない国々があるということだ。理事国間でのこうした不一致は、基準的状況において展開し、価値に関する論争や理事会の目標、役割、アジェンダをめぐる論争につながる。こうした論争は、理事会内における重要なゲームとして見ることができる。このゲームがあるからこそ、理事会は、理事国が世界の秩序のあるべき姿について議論する場であるのだ。
第三に、安全保障理事会は理事国の、理事国のための理事会だ。そして本質的に政府間組織である。理事会は、まるでその構成員(理事国)とは分離した独立性を持つ存在であるかのように「国連安全保障理事会」としばしば呼ばれるが、必ずしも独立した行為者ではない。 ロバーツ氏とザウム氏が適切に示唆したように、理事会は「均質な一体組織」ではなく、「むしろ国家協調、特に大国の協調のための焦点である」。
理事会は理事国のフォーラムであり、理事国のために設計され、理事国間の協調に基づいて機能する。理事会は、理事国が集団的に行動することを決定し、その後、その決断を実行するために必要な資源を提供しない限り、行動する権能は持っていない。トーマス・ワイス氏も国連に関するこの認識を指示しており、次のように結論付けた。「国連は第一に、理事国が自国の外交政策を追求したり伝達したりできる制度的枠組みである」
第四として、普遍的価値を運用化したり、対応する民主主義に従ったり、保護する責任を擁護したりする義務は、理事会にはない。前述で確認したように、理事会は、本来的に選択的で、国家によって動かされる政治的団体であり、全ての理事国は自国の利益を守る意図を持っている。このような利益に基づく懸念は、愛他主義や普遍的価値への服従よりも、ほぼ確実に優先される。
保護する責任の第3の柱の運用化に関する理事会の不一致は、リビアおよびシリアの事例によく表れている。リビアの例では、理事会は保護する責任の手続きに基づいて行動し、包括的な決議を採択し、民間人を暴力あるいは暴力の脅威から守るという目的で武力の使用(飛行禁止空域)を承認した。これとよく似た事例がシリアでの事例の直後に生じたが、理事会は(主に中国とロシアの懸念によって)保護する責任の適用に関して合意せず、その結果、理事会は行動を起こさなかった。
過去70年に及ぶ理事会の行動の事実に基づけば、将来的に保護する責任が一貫して適用されることを期待するのは不合理である。残念ながら、高い期待が裏切られれば、多くの人の目には、保護する責任という概念が崩壊したと見えるかもしれない。さらに、保護する責任は、道徳を広める運動や擁護の道具というステータスに落ちてしまうかもしれない。
要約すると、安全保障理事会は、偏りがなく、政治に影響を受けず、民主主義的で、あらゆる状況において全てのことを行い、全ての実体であり、適切に機能し、集団安全保障を提供し、保護する責任を忠実に果たす組織であると期待することはできない。だからといって、こうした期待が「良くない」あるいは価値がない、ということではない。ただ、そうした期待は、現実に存在しない安全保障理事会の概念に基づいたものなのだ。安全保障理事会は、強烈なほど実利的で選択的で、制限がある一方で強力な組織だ。こうした矛盾が理事会という大事業を1つにまとめている。そして、理事会に批判を投げ掛ける前に、こうした矛盾を認識しなければならないのだ。