姉妹だけど双子じゃない:文民保護と保護する責任

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  • 2012年2月17日

    ヴェセリン・ポポフスキー

    姉妹だけど双子じゃない:文民保護と保護する責任

    Photo: UN Photo/Yutaka Nagata

    国連大学サステイナビリティと平和研究所のヴェセリン•ポポフスキー(Vesselin Popovski)博士が、「文民保護」と「保護する責任」という概念の相違点と共通点について考察します。具体的には、それぞれの起源、経緯そして2011年のリビア情勢への適用、さらに安全保障理事会決議1970および1973によりもたらされた措置について考察します。

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    武力紛争時の文民保護(POC)という概念の起源は、早くから宗教文書のなかに見られ何世紀にもわたって整備されてきた戦争規範の発展の歴史まで遡ることができる。武力紛争下における文民および(傷病兵や捕虜といった)非戦闘員の生命保護の必要性は、国際人道法のなかで徐々に認められ、一般的な概念となり成文化されるに至っている。ジュネーブ第四条約において「文民の保護」という表現が初めて使用され、それ以来国際法における確固たる概念となっている。

    過去20年間に発生した大規模な武力紛争、すなわちボスニア・ヘルツェゴビナ、リベリア、ソマリア、ルワンダ、ブルンジ、東ティモール、コンゴ民主共和国、シエラレオネ、コソボ、ダルフールなどにおいて文民保護が機能せず大量の犠牲者が出たことで、POCは国際的に重要な懸案事項となっている。1999年にPOCに関して最初の国連事務総長報告書が発行されて以来、国連とその主要機関である安全保障理事会において定期的に検討されてきた。

    POCに対する関心の高まりと平行して、保護する責任(R2P)という概念が、同様に人道上の懸念から生まれてきた。そして、さらなる文民保護の失敗、すなわち1998年から99年のコソボのアルバニア系住民に対する民族浄化と、それに対して1999年3月にNATOが安全保障理事会の承認を得ず実施した軍事介入を問題視する声を受けて、「介入と国家主権に関する国際委員会(International Commission on Intervention and State Sovereignty: ICISS)」が設立された。

    ICISSでは当初、人道的介入の権利について議論されたが、何らかの結論を得るには至らなかった。しかしその会合の1つにおいて、「保護する責任」というフレーズが「人道的介入」に代わる概念として提唱され、介入する国々の利益から犠牲者の生命を守る必要性へと着目点が移行したことで、誰も異議を唱えることはできず、会議場を覆った静寂が新たな概念の誕生を意味することになった。2005年には、約150カ国の首脳が一堂に会した史上最大規模のサミットにおいて「世界サミット成果文書」が採択され、R2Pは世界共通の新たな規範となったのである。

    POCとR2Pの関係

    2010年夏に、R2Pに関する国連事務総長特別代表を務めるエド•ラック(Ed Luck)に話を聞いた際、彼はPOCとR2P について「いとこ同士だが姉妹ではない」と表現していた。しかし2011年初めのリビア情勢と、各地域的組織と安全保障理事会による対応の結果、これら2つの関係はより近いものとなっている。そのため、私としてはこの2つの概念の関係を「姉妹だが双子ではない」と表したいと思う。

    POCとR2Pが保護しようとする対象は同じであり、大規模な人為的暴力に苦しむ文民の保護が目的だが、そのニュアンスは異なり、またそれぞれに制約がある。R2Pにとっての制約とは、人権に対するあらゆる侵害に対して適用されるのではなく、またいかに悲惨であったとしても自然災害の被害者が保護の対象となることはないという点だ。R2Pを発動すべきか否かの基準となるのが、残虐犯罪、すなわちジェノサイド(大虐殺)、人道に対する犯罪、戦争犯罪であるかどうかということである。つまり、組織的で計画的な犯罪である必要があるのだ。

    一方でPOCにとっての大きな制約は、武力紛争といえる状況に対してのみ適用される点である。武力紛争すなわち文民対戦闘員という状況が発生していない場合は、POC は平時の文民の保護へと変わり、それについては、既に整備された包括的な数多くの人権が拠り所となる。

    戦時の文民保護であるPOCは、平時の文民保護よりも制約が多く、戦時の非戦闘員全般の保護と比べても範囲が限られている。すべての戦争犯罪がR2Pの適用範囲となるが、傷病兵や捕虜のみが犠牲者となり文民が巻き込まれない戦争犯罪もあることから、戦争犯罪のすべてにPOCが適用されるということはなく、したがってPOCはR2Pよりも狭い概念ということになる。その一方で、R2Pはすべての武力紛争に適用されるわけではなく、戦争戦略の一環として大規模な残虐行為が組織的に計画される状況のみを想定していることから、R2PはPOCよりも狭い概念といえる。

    つまりは、多くの状況で、R2PとPOCの適用範囲は重なっており、たとえば、武力紛争において文民に対する戦争犯罪や人道に対する犯罪(民族浄化やジェノサイドなど) が生じている場合が該当する。POCは適用されるがR2Pは適用されない状況としては、大規模な残虐行為は計画されておらず、発生もしていないが、武力紛争の激化によって文民の安全が脅かされている場合である。またR2Pは適用されるがPOCは適用されない状況とは、武力紛争とは無関係に大量虐殺が計画され、それによって文民が危険にさらされている場合である。

    さらにいえば、当初は武力紛争ではなかったが、状況がエスカレートして武力紛争の様相を呈するようになり、POCを適用する必要が生じる場合も考えられる。(2011年2月26日の)安全保障理事会決議(SCR)1970は、リビアにおける平和的なデモ参加者に対する残虐行為について、武力紛争という状況ではないとして、R2P(人道に対する犯罪)を適用する懸念を表明しているが、法的にみてPOCを適用する状況には至っていなかった。それに続く(2011年3月17日の)SCR 1973では、リビア情勢を内戦と位置づけ、もはや抗議や暴動の段階にはなく、したがって R2Pと平行してPOCの適用が検討されることになった。

    危機的状況においてはR2PとPOCは極めて近い概念となり重なるといえるだろう。そうした例としてあげられるのが、1992年~1995年のボスニア・ヘルツェゴビナであり、2003年~2007年のダルフールだ。2011年のリビア情勢は、SCR 1970における第一の柱(国家による保護の責任)の履行義務を促す段階から、第三の柱(国家が明らかに保護義務を怠っている場合の「適時かつ断固とした対応」)のすべての側面に該当する段階まで悪化していた。同時に、内戦状況と位置づけられたことで、SCR 1973においてPOCが謳われることになり、 POCとR2P双方の適用が文書の形で決議されることになったのである。

    SCR 1973に関してもう1つ重要なのは、POCをカダフィ政権の義務としてだけではなく、紛争に関わるすべての当事者の義務であるとした点であり、反乱側に対しても文民の保護を強く促している。R2Pが国家だけの問題であるなら、POCは国家以外のアクターにとっても義務となりうるのだ。

    R2Pは、適用の範囲は狭いものの利用可能なリソースは極めて幅広く存在する。すなわち、国内、二国間、地域的また国連などの各システムに由来する手段、権限分担協定(2008年のケニア)から軍事力行使(2011年のリビア)に至るあらゆる手段に訴えることが可能である。

    R2PとPOCの法的源泉について、以下の表に比較表示した。

    R2P

    POC

    1949年ジュネーブ条約とその追加議定書(戦争犯罪) 1949年ジュネーブ第四条約(POC)、国内および国際的人道法、国際人道法(武力紛争法)
    1948年 ジェノサイド条約(集団殺害) 国連安全保障理事会決議:テーマ別 (決議1894) および国毎のPOCマンデート
    1998年 ICCローマ規程(Rome Statute for ICC) (人道に対する犯罪、強制国外追放) 難民法(1951年条約、2009年国内避難民に関するアフリカ連合条約)
    国内法(第1の柱)二カ国、地域法(第2の柱) 地雷を禁じたオタワ議定書
    国連憲章、第6、7、8章措置(第3の柱) 2010年クラスター弾に関する条約
    関連する人権法– たとえば、少数民族の差別禁止 関連する人権法– たとえば、児童の徴兵禁止

    上記の表から類似点と相違点は明らかだろう。4つのジュネーブ条約のすべてがR2Pと関係しているが、POCに関係があるのはそのうちの4番目の条約だけである。また、R2PとPOCのいずれについても、人権法のすべてが適用されるわけではなく、関係があるのは一部だ。なお、POCの法的源泉には、難民法や軍縮条約、市民を過度に犠牲にする特定の武器の禁止なども含まれるだろう。

    POCとR2Pは、法的源泉だけでなくそのアクターについても微妙な違いがある。 R2PとPOC双方にかかわるアクターもあれば、いずれか一方の保護に関してだけマンデートを有するアクターもあるのだ。また、POCミッションには極めて積極的に関与し、自らのマンデートをよく理解しているが、 R2Pへの関与については自らのマンデートを危うくするとして消極的なアクターもいる。R2PとPOC は同様の人道的課題を共有してはいますが、各々の特殊性もまた重要なのである。R2Pの方が「年下の妹」ではあるが、POCの足を引っ張るものではなく、むしろ行動を促す触媒であり、政治的意思の結集によってPOCアジェンダを補完することが可能だ。

    すなわち、R2PとPOCには、 2011年のリビア情勢への対応に見られるように、相互作用が期待できるのである。R2P が国連安全保障理事会によって利用されたのはSCR 1970と1973が初めてではなく、スーダン(ダルフール)とコートジボワールに対する先の決議においても、同様にR2Pの考え方が表明されている。また、文民保護のために安全保障理事会が軍事力の行使を認めたのは、リビアが初めてではない。1995年のボスニア、サラエボ近郊におけるセルビア人勢力の軍事拠点に対する爆撃は、安全保障理事会の明確な承認のもとに実施された。

    SCR 1973が、その時点で機能していた国家の要望に反して、安全保障理事会が人命保護のために武力行使を認めた最初の例であるとする、ポール•ウイリアムズ(Paul William)とアレックス•ヴェラミー(Alex Bellamy)の主張に、私は疑問を感じている。安全保障理事会は、第1次湾岸戦争後の(1991年3月の)決議688において、イラク北部の少数民族クルド人を保護するために飛行禁止区域を設定している。これは明らかに当時機能していた国家(イラク)の要望に反した措置であり、また(2011年のリビア情勢と極めて似た状況として)サダム・フセインが自国民の多くに大虐殺の恐怖を与えていた。また、SCR 688が認めた飛行禁止区域はただの脅しではなく、1990年代には何度か空爆も伴って強制されている。

    しかし、SCR 1970と1973について新しい展開だと私が考えるのは、文民の大量虐殺をくい止めるために POCとR2Pの2つの概念が初めて同時に用いられた点だ。 2011年2月26日にリビア国民を残虐行為から保護する緊急の必要性を安全保障理事会が認め、満場一致によるSCR1970の採択を受けて安全保障理事会によりR2Pが発動された。市民に対する広範な組織立った攻撃は人道に対する犯罪にあたる可能性があると理事会は考え、残虐行為犯罪の1つに該当するということでR2Pの適用を発動したのである。

    SCR 1970においては、明確な表現でまた個別のパラグラフとして、リビア国民を保護するリビア当局の責任について想起している。リビアに対して第7章制裁を課すとともに、事態を国際刑事裁判所(ICC)に付託している。これは R2P 犯罪が行なわれた可能性を示している。

    リビア政府はSCR 1970を無視しただけでなく、ミスラタやアジュダービヤーなどの包囲された都市への人道援助隊の通行許可を拒絶することでSCR 1970に違反していた。平和的解決策の模索は続けられてはいたが、外交的努力だけでは極めて危険な状況にある市民を保護することはできないだろうという認識を、徐々に大半の国々と地域組織が持つに至った。

    リビア政府が自国民を明らかに保護できていない状況を認めた国際社会は、第三の柱へと対応を移行させ、いくつかの措置を講じた。3月12日にはアラブ連盟から安全保障理事会に対して、リビア空軍に対する即時の飛行禁止区域設定の要請と、市民保護のための予防的措置として安全地帯設定の要請があった。これは極めて重要な展開へとつながり、英国、フランス、レバノンにより、「文民保護を確保するためにあらゆる実行可能な措置を講じる第一の責任を担う」よう、武力紛争の各当事者に強く促す新たな決議1973が提案された。

    暴動(武力紛争とまではいえないもの)から内戦へと状況がエスカレートしたことで、SCR 1973はPOCの概念を現実化することになった。これは重要な法律上の決断であり、この決断により安全保障理事会は、(内)戦時に適用される国際人道法やジュネーブ諸条約に基づいた義務に関する自らの決定について、断固たる行使を可能にしたのである。また、戦争犯罪に対する管轄権を、人道に対する犯罪の恐れを根拠として、SCR1970におけるR2P義務としてやや漠然とではあるが既に確立されていた権限に加えることになったのである。

    SCR 1973において、POCとR2Pという姉妹的概念の法的、道徳的、政治的範囲が結合することで、文民や文民居住地域の保護のために、安全保障理事会が武力行使を含めた第7章に基づく絶大な権力を行使しやすい環境が整うことになった。こうした(時代遅れの機関だと非難されることが多い)安全保障理事会の断固たる決断は、 POCそしてR2P双方の勝利だ。

    ここで1つ、興味深くまた注意すべき点として、ある状況が内乱と位置づけられると、SCR 1973におけるように、jus in belli(文民の保護)に加えて jus ad bellum (反乱軍に対抗するリビア政府の権利)も正当性を帯びることになる。したがって、空爆や、SCR 1970に基づく、武器禁輸措置に違反した軍事物資の供給を通じたリビア反乱軍に対する軍事支援は、国際法上極めて厄介な問題となってくる。

    SCR1970と1973によって課された措置について、以下に簡単に比較している。

    SCR 1970は、暴力の即時停止を求めるとともに、最大限の自制を伴った行動、人権尊重、すべての外国人の安全確保、人道支援物資や医療物資の安全な通行許可、またメディアに対する制限解除を、リビア政府に強く促した。そして次のような制裁措置を課すことを決定してる。(1) ICCへの当該状況に関する調査の付託、 (2) 武器禁輸措置と、それを強化する目的での各国政府に対する、合理的根拠に基づき禁止物品を含むと考えられる貨物すべてに対する検査要請、(3) カダフィ自身と彼の家族の一部また暴力行為に関与した軍指導者を含む16人のリビア高官に対する移動禁止令、(4) カダフィ、カダフィの4人の息子と娘1人の6人に対する資産凍結。

    SCR 1973は、「文民の保護」というサブタイトルの第4パラグラフにおいて、あの有名な処方箋「必要なあらゆる措置を講じる」により武力行使も容認している。第5パラグラフでは、飛行禁止区域が設定されている。SCR 1973 においてはまた、1970年に採択されたその他の措置も強化されている。すなわち先の決議の第11パラグラフに置き換わる形で第13パラグラフの武器禁輸措置の実施が盛り込まれ、加盟各国に対し、「そのような検査を実施するために個々の状況に応じて必要なあらゆる措置」を講じることを認めている。この限定的承認は、リビアのみを対象として追加されたものではなく、禁輸措置に違反する可能性のあるその他の国(その船舶や航空機を含む)に対しても適用可能だ。

    このことはおそらく、最も興味深く、最も議論の的となる問題を提起しているだろう。SCR 1970と1973 は、リビアに対する武器供給を禁じただけでなく、供給を阻止するための限定的な武力行使も認めている。2011年6月末にフランスが、包囲された反乱軍に、マシンガンや歩兵携行用対戦車擲弾や弾薬をパラシュートで投下した際には、SCR 1970違反としてこうしたフランスの行動に抗議し、ロシアもまたフランス機に対して武力を行使できただろうか。リビア反乱軍に対するフランスによる武器供給を止めるためにロシアがそうした武力を行使することは、決議1973にかなったものといえたのだろうか?

    成功それとも失敗?

    ガレス•エヴァンス(Gareth Evans)、アレックス•ヴェラミー(Alex Bellamy)、トム•ワイス(Tom Weiss)、ジェニファー•ウェルシュ(Jennifer Welsh)などさまざまな学者の、SCR 1970および1973 はR2Pの成功事例であるという見方に私も同意する。これら決議の目的は、文民を保護することであり、10年前にR2Pの概念が最初に登場して以来初めて、最大規模でその力が適用されることになったのだ。第一の柱である国家による保護の責任が満たされていないことが明らかとなった時点、さらに、カダフィ政権が自国民を大虐殺の危機にさらした時点で、その責任は国際社会に移り、国連および各地域組織は、交渉、外交的圧力、制裁、武力行使などのあらゆる措置を発動することになったのである。

    リビアが、R2Pの可能性のすべてを示した成功事例であるとするなら、もう1つの例であるシリアは残念ながら1999年のコソボの際に提起された、「国家が明らかに国民を保護できておらず、同時に、安全保障理事会が機能停止に陥っている場合に、どのように人々を大量虐殺から救うことができるのか」という難題を再び突きつけている。これは、R2Pに関する議論、またその概念が誕生するきっかけとなった疑問と同じだ。

    これまでのところR2Pの最大の成功例の後には R2P最大の失敗例が続くことになる恐れがある。シリア、イエメンといった国々の人々を保護できてはいない。国連や地域組織がリビアの時と同じ断固たる決意で行動しなければ、R2P、POC の適用に一貫性が見られないことによって今後もさまざまな疑惑を呼ぶことになるだろう。

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    本稿は、Australian Responsibility to Protect Fundの資金援助による共同プロジェクトの一環として、国連大学サステイナビリティと平和研究所(UNU-ISP)、グリフィス大学、Asia Pacific Civil-Military Centre of Excellenceにより2011年6月にマニラ、クララルンプール、ジャカルタで開催された3つの地域能力開発ワークショップにおける講演の内容をまとめたものです。