2013年3月12日
写真:村上涼
著者のブランドかおりは、国連大学で5年にわたり様々な映像製作をおこなってきた。ブランドかおりは2011年の東日本大震災で被害を受けた地域に関する プロジェクトにも精力的に携わり、本記事では気仙沼と重茂(おもえ)の漁港コミュニティとしての復興を記録する中で体験したことを記した。
気仙沼のドキュメンタリー映像(31分)をご覧になる場合は以下から、重茂の映像(12分)は記事中の添付映像をクリックしてご覧ください。
• ♦ •
2011年3月11日、2時46分、私は東京の映画館で「 英国王のスピーチ」という映画を見ていました。いよいよ中盤に差しかかり、映画のストーリーに夢中になっていたころ、劇場の座席は大きく揺れ始めました。
物語がちょうど面白くなってきたタイミングでしたし、東京は頻繁に小さな地震はおこるので、今回も大したことは無いかと思い、しばらくは映画館を出ようとしませんでした。ところが揺れは収まるどころかひどくなる一方で、さすがに怖くなり、席を立ちました。ちょうど上映も打ち切られ、直ぐに劇場の外に出るようにとの場内アナウンスが聞こえてきました。
揺れの大きさに不安になりながらも、自宅に帰って東北の津波の映像を目にするまではここまで被害が大きくなるとは考えも及びませんでした。その悲惨な状況を知り、私が取材してきた漁港がどうなったのかとても心配になりました。漁師さんの話を直接伺う機会もあり、船に乗せていただくこともあったので、3.11の被害で次々と船が流され、漁港が破壊されるのを見るのは、ことさら辛いものでした。
地震の2ヶ月前の2011年1月、それまで幾度もドキュメンタリーの製作( 金沢の生物多様性シリーズもその1つである)を一緒に行ってきた 国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティングユニットの当時の所長である、あん・まくどなるど氏から新しいプロジェクトの話が持ち上がっていました。
あん・まくどなるど氏のチームがまとめた生物多様性条約事務局(CBD) テクニカルレポートを基に、日本6カ所の漁村、漁港を巡り、環境保全、持続可能な漁業のための取り組みをビデオにまとめるという「里海」プロジェクトです( 里海とは人手が加わることにより生物生産性と生物多様性が高くなった沿岸地域)。既に2月から北海道、石川県の取材を始めており、これから岡山、沖縄、三重県と続くところでした。
震災が最も影響を及ぼしたのが沿岸部ということもあり、まくどなるど氏と被災地の漁業の復興をテーマに取材を始めることが出来ないかという話し合いが始まりました。彼女は宮城大学で教鞭をとり、長年、宮城県に住んでいたので、東北への思い入れは強いものでした。今回まとめることが出来たドキュメンタリーの撮影は2011年4月、6月、9月そして2012年2月と4回にわたって行われました。できればもっと長いスパンで復興を取材できればと考えていますが、1年半という区切りのためにも今回気仙沼の取材を30分、重茂の取材を10分にまとめました。
4月11日、震災からちょうど1ヶ月後の日に私たちは宮城県気仙沼へと向かいました。そのときは畠山重篤氏の、森と海の環境を守る取り組みと、その復興を中心に取材を進める予定でした。( ビデオと記事はこちらからご覧いただけます。)
新幹線が復旧していなかったので、新宿から高速バスで仙台まで向かいました。震災の映像を目にしない日は無いというほど、日本のテレビでは震災関連の話題に時間を費やしていました。あのひどく破壊された町並みを直接目にするのはいつなのか、気持ちは落ち着きませんでした。
仙台に着くと、東北でテレビを中心に映像の仕事をしているCine Techという会社のカメラマン兼社長の佐藤さんの車に乗り換え、気仙沼へと向かいました。気仙沼市内へと向かう道、所々地震の影響で道路が波打っているような場所があり、車が何度も縦に揺れました。気仙沼の港に近づくにつれ、破壊された建物、道路の真ん中に打ち上げられた巨大な船、薄暗い夕暮れの道に、常識では考えられないような物がいくつも残されています。ナビがついた車でも、土地勘のない人には何がどこにあるのか分からないほど町は破壊されていました。東北で長年取材をしてきた佐藤さんの知識は今回の取材では本当に心強いものでした。
最初の取材で、次々と目の前に広がる破壊に気を取られ、歩き続ける私たちの後を、佐藤さんは常に離れず車で着いてきてくれました。それは私たちには気が回らないことでしたが、余震が続く東北で、何かあれば、直ぐに車に乗って、高台に向かわなくてはいけないからなのです。東京から来たのんびりした頭に、佐藤さんのお話はこの地の現実に目を向けされてくれました。
取材を始めるにあたり、全国漁港漁場協会の理事でもある、まくどなるど氏を通じ、会長の田中氏に気仙沼漁業協同組合をご紹介いただきました。そのおかげもあり、気仙沼漁協の村田専務に宿をご紹介していただき、取材の対応等もしていただきました。震災から1ヶ月後で、気仙沼ではまだ電気や水が完全に復旧したわけではありませんでした。
ビデオにも登場する阿部さんの経営するホテル観洋が我々を受け入れてくれました。 ホテルでは既に工事関係者やマスコミ関係の受け入れをしていました。普段は観光客でにぎわっているはずのロビーも薄暗く、静かでした。
「こんばんは、いらっしゃい」。薄暗いホテルのロビーで、にこやかに言ってくれた男性が、阿部社長でした。当初、阿部さんのことは全く知らず、ましてや取材をする予定もありませんでした。カメラマンが「あの人昨日NHKに出ていた」とぼそっと言いました。NHKは震災前から阿部社長の取材を始め、震災後一ヶ月の取材をドキュメンタリーとして放送したばかりだったのです。後から、阿部さんは阿部長商店という地元で最も大きな水産加工工場を経営している社長だと分かりました。
畠山氏の取材、そして気仙沼漁業組合の組合長の佐藤さんのお話を伺いながら、気仙沼へ来る度に阿部さんにもお話を伺う機会を頂き、今回まとめたドキュメンタリーでは阿部さんと気仙沼の復興をリンクさせながら構成しました。
私たちが訪れた4月でもまだ暖房無しでは肌寒く、3月の震災の日には雪が降るほど寒かったのです。避難をする人の心細い気持ちをさらに不安にさせたことかと思います。
私たちは、その後数日間、気仙沼を拠点とし、陸前高田、南三陸、石巻といくつかの沿岸部の町へと取材に行きました。どこへ行っても破壊はひどく、沿岸の海風を遮る木や建物が根こそぎ無くなっていたため、強く吹き荒れる風に瓦礫と砂埃が舞い荒れていました。それでも一ヶ月の間に地元の方々、自衛隊、警察、消防などにより、車が通れるように道が造られていたり、ゴミが種類によって分けられていたり、震災直後の映像とはまた異なる状況でした。しかし、町の静けさはまるで喪に服している彼らの心を表しているようでした。
佐藤組合長は、カネダイという会社の社長でもあり、震災当日には会社で仕事をしていました。被災したオフィスを見せていただきながらお話を伺っている時に、壁に貼ってある世界地図を見ながら佐藤組合長はお話されました。「気仙沼は世界地図保有密度が日本でも最も高いのではないのかね?どこの家に行っても世界地図を貼ってあるんだよ。遠洋船で外国に行く人が多いから、自分の息子や、家族が今どこにいるのか世界地図を見ながら確認するんだよ」
佐藤組合長のご紹介もあり、気仙沼の商工会議所にお邪魔して、スペインから届いた寄せ書きを見せていただきました。 サグラダ・ファミリア唯一の日本人彫刻家、外尾悦郎氏と臼井賢志会頭の親交からサグラダ・ファミリアの職員の「今こそ勇気と心を一つに」と書かれた被災者を勇気づける言葉が日の丸に書かれて届けられたのです。このように世界中から東北へ向けて応援の言葉と、義援金が届けられたことも決して忘れてはいけないことだと思います。
6月に気仙沼を訪れた際には阿部さんのホテルは避難住民の受け入れも行っていました。仮設住宅が整えられるまでの間、体育館などの避難所ではプライバシーを保つのが難しく、 ホテルの個室であれば、家族単位で入居することもできるため、4月の静けさから打って変わり、多くの人が生活をしていました。
また工事関係者やマスコミ関係者も多く、ホテルの満室状態が続いていたそうです。
気仙沼の取材を続けながらも、もう少し、小さな漁村の復興も取材する必用があるのではと話し合い、 岩手県の重茂(おもえ)という地元の自然を大切しながらコミュニティー全体で復興を目指す漁村で取材を始めました。気仙沼では佐藤組合長や阿部社長もインタビューの中で、復興できる人から立ち上がり、街全体を引っ張って、やがて街全体が復興を遂げる、とおっしゃっています。反面重茂では始めから街全体で、共同意識を持っての復興を目指しました。
気仙沼は漁業基地と言われるだけあり、他県籍の漁船が多く入港し、水揚げをおこないます。昭和44年には、水産業の振興のためにとくに重要であるとして、特定第3種漁港に指定されました。気仙沼で水揚げされる魚は鮮魚出荷される他、多くが港の近くに建っていた水産加工場で加工されていました。重茂漁港は第2種漁港、ビデオに登場する乙部漁港は第1種漁港です。第1種漁港はその利用範囲が地元の漁業を主としており、第2種の利用範囲は第1種よりも広いが、第3種の全国という利用範囲よりは狭いものになっています。
岩手県を訪れた際に、漁港の整備、管理維持をされている岩手県沿岸広域振興局水産部、宮古水産振興センターの藤原庄一朗氏に、何度かお話を伺う機会がありました。現在は震災で被害を受けた漁港施設の復旧のための仕事をされています。
震災直後はお仕事をされている県の庁舎も緊急措置で避難場所となり、ご自分もそこでしばらく生活しながら、避難住民の対応をされていました。震災の翌日からは現場の情報収集に取りかかりました。沿岸部を震災直後に実際見た日のことを次のように語ってくれました。
「そうですね、ちょっと信じられないような状況でした。かなりひどい状況と話は聞いていたし、すぐそばまで津波が来ていたという話だったので。ただ、やはり実際に次の日に見に行った時に道路もなければ、人家も沿岸部は被害を受けている、ようやく国道の一部通れる所がある、そういった中で度々、津波警報が出る中、避難しながら現場を見て歩くというのは大変な状況でした。これ私個人の考え方だったのですけど、死者を弔うのはしばらく後にしよう、と。私の仕事は、また漁業者が海に戻って行くための、漁港という物を再建して行かなくてはいけないと、明日生きるために自分の仕事をしなくてはいけない、と思っていましたので、3月の16日くらいからですかね?電気が通って、パソコン使えるようになったときから復興計画試案というのを作っていました」
藤原氏がおっしゃるには、漁業者は自ら生産しなくては生きていけないから、行政の対応を待てず、たくましく自分たちで復興しようと動いている。ただ、藤原氏を始め、多くのサポートを受けながら復興は進められて行くのだと、行政の中にも、海と漁業を大切にしている人が多くいるのだと知りました。
「港を歩いて回っていると壊れた瓦礫のほんのちょっとした潮溜まりに、ちっちゃな魚がたくさんいる。再生を今生物達はやっている。すごいな、と思いました。そういった海があるから漁業って死に絶えないんだ、復活できるんだと思います」とも話してくれました。
9月に気仙沼を訪れた時には震災から半年を迎えることもあり、「気仙沼市東日本大震災合同慰霊祭」に参列させていただきました。津波で祖父母を亡くされた気仙沼高校の菊田真由さんのお話がとても強く印象に残りました。おじいさんが漁師をされていたので、ちょうど今回の取材でもお話を伺った漁師さん達と、菊田さんのおじいさんの姿が重なる気がしました。以下菊池さんのスピーチの抜粋です。
「どうして毎朝いないの?」と(祖父に)尋ねると 、「海で牡蠣やワカメが待っているからな。牡蠣やワカメも生き物だから、ちゃんとお世話をしてあげないとおいしい物が出来ないんだよ。」と教えてくれました。幼い私にはよく理解できませんでしたが、私が小学校5年生の時に、スローフードの学習で祖父が牡蠣名人として招かれて特別授業をしてくれました。その授業を受けた時に始めて毎朝祖父がいない理由そしていつも何気なく食べている牡蠣にかなりの手間がかかっていることを知り、祖父の働きに感謝しました。漁業は寒い時期の作業が多く、震災当日もワカメの仕事をしていました。81歳だった祖父には大変な仕事だったと思います。それでも黙々と仕事をする祖父の姿を今でも忘れることができません。(略)」
「無口だけども家族のために一生懸命に働いてくれた祖父、さりげなく大切なことを教えてくれた祖母、そんな2人に何の恩返しも出来ないまま旅立たれたことが悔しくてなりません。あの時すぐに電話をかけて「早く逃げて」と言っていれば祖父母は助かったのではないか?
2人はどんなに怖かっただろう、どんなに冷たかっただろう?おじいちゃん、おばあちゃん、ごめんね。ごめんね。私は何度も悔やみました。
思いっきり泣きたいと思いました。しかし、震災当初は泣くことさえままなりませんでした。200人以上が避難している階上小学校での避難暮らし、赤ちゃんや幼い子供も大勢います。大変なのは私だけではない、絶対負けない、自分にそう言い聞かせました。翌日から近隣の方が炊き出しのボランティアに来てくださったので、私はすぐにその手伝いをしました。今の私に出来ることをしよう、それが祖父母への恩返しになるのでは、と思ったからです。次の日手伝いをしている私のところへ、妹が3人の同級生と来ました。私たちも手伝うよ、と。妹も私と同じ気持ちだったのでしょう。
小さな一歩が次の一歩に繋がる、それが人との絆になるのでしょう。私はうれしくなりました。震災後自衛隊を始め多くの方がご支援してくれました。そのおかげもあって、少しずつではありますが、復興してきているように思われます。しかし完全な復興を遂げるのはまだまだ先のことです。高校生の私に出来ることは少ないかもしれませんが、出来ることを少しずつ実行に移すことが復興に繋がると思うので、微力ではありますが、これからも続けて行きたいと思います。
最後にご支援してくださった全国の皆様に感謝するとともに、亡くなられた方のご冥福を祈のり、行方不明の方が一日も早くご家族の元に戻られることをお祈りし、お別れの言葉といたします。」
2012年2月、震災の年から一年が過ぎようとしている気仙沼の町にはうっすらと雪が積もっていました。偶然、気仙沼で調査をされていた東京大学農学生命科学研究科の八木信行氏にお話を伺うことができました。印象に残ったのは「世界に向けて発信するべきことは」という問いに「お礼です。そしてリスクコミュニケーションだと思います。福島で原発事故があり、それの影響はどうなのかということを日本国内でも心配していますし、外国でも心配しています。ですから、リスクコミュニケーションということで、正確な情報をどういう風に伝えれば良いのかを研究をしている人もいるのです。そういう研究の成果を世界に発表するということで、貢献になると思います。」とお話くださいました。
一年近くが経ち、改めて2011年3月11日に何が起こったのか、日本が、私個人が、どのように変わったのか、変わらなかったのか考えました。
被災地の人に「あの日どこで何をしていましたか?」と伺う機会が何度となくありました。話を伺った漁師さんの中には、自分の船を守るために、津波が来る前に海に向かい、 沖に向かった人もいました。昔から地震が起こると津波が来る前に船に乗り込み沖に出た人もいました。 もちろん、沖に向かった全ての漁師さんが助かったわけではありません。船を失いながらも命は助かった人もいれば、船もそして、命を落としてしまった人もいるのです。
私がお話を伺った人の多くは、とても前向きに復興と人生をとらえている方が多かったのですが、もちろん皆さんがそんなに強いわけではありません。ただ、今回のビデオに登場されている方々のような強く運命に立ち向かう方をご紹介させていただくことによって、被災地の人々、そして全ての視聴者が、強く自らの足で立ち上がれる手助けになればと思いました。それは私が皆さんのお話を聞きながら感じたことです。
その後も「 里海」ドキュメンタリーのプロジェクトで、2011年は日本各地の漁村を訪ね、海とともに暮らす、たくましい漁師さんたちの生活を垣間みさせていただきました。岡山で取材させていただいた牡蠣養殖の漁師さんは、自分と同じ仕事をしている人達の被害の大きさにショックをうけ、自分に出来ることがあれば、是非助けになりたい、被災地の復興がなければ、自分たちの漁も成り立たない、とお話しされていたのが印象的でした。沖縄も、石川も、三重も、漁師さんはどこの方も自らのことのように、被災された漁業者に心を痛めていました。
取材を続けながらも、途中で遮られたのが気になり、映画「英国王のスピーチ」を再度見に行きました。実話を元にしたストーリーで、第二次世界大戦が始まる直前の英国民にむけてジョージ6世は、話すのが得意ではないのを乗り越え、ラジオを通して国民に話しかけます。
震災の日、私が見たナチスの行進を見ながら不穏な空気に包まれた英国はその後、第二次世界大戦へと参戦することになります。国民を励ますために読まれたスピーチは、震災後の日本にも通ずることがあるように感じられました。震災前と後と、日本を動かす大きな災害を挟んでの映画鑑賞となりましたが、スピーチは震災後だからこそ、より心に響いた気もしました。
戦時下のような明確な敵がいるわけではありませんが、苦難の時を国民一丸となり、立ち向かう必要があるというのが、第二次世界大戦直前のイギリスと、震災後の日本と条件は色々異なるけれども、重なって見える部分があります。震災は被災地の問題だけではありません。試練の時であり、苦難の道が待っています。ただ、復興という道に向けて、日本全体で向かうことが必用なのでしょう。
「(略)私は今、国内の国民と海外の国民に語りかける。彼らは国家の大義を己自身のものとして受け止めてくれるだろう。我が国民よ、冷静に、かつ信念を持って、この試練の時に団結してほしい。それは困難な課題になるだろう。この先、暗い日々が待ち受けているかもしれない。そして戦争は、もはや戦場だけにとどまり得ない。しかし正義を知り、敬虔なる心で大義を神に捧げる私たちは、正義を行うしかないのだ」(1939年、英国王ジョージ6世が国民に向けたスピーチ。部分翻訳)
復興についても、被災地の方々に色々お話を伺いました。この困難の時期、地元の漁業関係者の多くは強く、これを機会に、よりよい方法で復興したいと強い思いでお話しされていました。もちろん、今回取材させていただいた方のように強い人ばかりではないと思います。漁業を辞める以外に選択肢がなかった人もたくさんいると思います。
このような状況の中で、我々のように被災地から離れた場所 に住んでいる人間と、政府が彼らに寄り添い、復興を自らの問題と考えながら、 改めて自分の国のことを考えることが大切なのではないでしょうか?1年半程しか経たないのに、日本の多くの地域では既に震災の記憶が風化してきています。このドキュメンタリーが、改めて今回の震災のことを考えるきっかけになれば何よりです。
取材にご協力いただいた皆様に感謝いたします。