結婚仲介業と移民の花嫁たち:ぼやける境界線

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  • 2016年7月25日

    イネス・クロサス・レモン

    Migrant Brides in the Matchmaking Industry: Blurring the Binaries

    Photo: UNHCR / C. Doan

    この10年間、東アジアでは国際結婚を目的とした移住がますます目立つようになっている。この種の移住では、ジェンダーや社会経済的階級に関する背景が大きな役割を果たす。一般的に見ると、ベトナム、フィリピン、インドネシア等、アジアでも比較的所得の低い国の女性が、韓国、日本、中国台北(台湾)等、域内でも比較的所得の高い国の男性と結婚するために移住する傾向がある。事実、後者の国々ではいずれも国際結婚が増加している

    しかし、ほんの数十年前まで、この地域での結婚目的での移住は事実上、存在しなかった。1980年代に日本が東南アジアから花嫁の受け入れを始めると、韓国、台湾、シンガポールがこれに続いた。ほとんどの東アジア諸国は、国内で一定の文化的・民族的統一性を保つため、極めて制限的な移民政策を採用している。このような政策は多くの場合、移民労働者の労働市場への参入を阻止したり、雇用を臨時雇いに限定したりするために用いられる。そのため結婚は、外国人がこれらの国々で市民権や、長期的な居住権を所得するための数少ない手段の一つとみなされている。

    このような背景の中で、結婚目的の移住は、よりよい暮らしを見つけるための一つの方法、そして、 主体性を確立し、独立するための一つの機会と考えられている。また、東南アジアの多くの女性は結婚に対する社会的プレッシャーを受ける一方で、送金を通じて本国にいる家族を金銭的に支援するために移住、結婚していることにも留意すべきである。同時に、受入国側では、人口構成や社会の大幅な転換によって、国際結婚を仲介する業者を利用する男性が多いという事情もある。

    結婚産業と一般世論のイメージ

    アジアにおける国際結婚の多くは、営利業者が仲介している。他国に見られる、「メール・オーダー・ブライド」産業(コンピュータ・ネットワークを利用した花嫁探し)とは対照的に、アジアの結婚仲介業者は、関連コスト、男女間の言語障壁、女性側のインターネットアクセスの制約といった問題があるために、メールのやり取りによるサービスを提供していない。一般的に、国際結婚仲介業者は花嫁候補がいる国で集団お見合いを開き、選ばれた男女は一連のグループ交際を経て、最終的な結婚相手を決める。結婚仲介の費用(約6,000〜1万2,000米ドル)は原則的に、男性が全額負担する。仲介プロセスがここまで体系化されず、インフォーマルなソーシャルネットワークを活用して行われるケースもある。

    しかし、東南アジアではこのような結婚仲介業者に登録する女性の増加により、深刻なジレンマと懸念が生じている。女性を単なる「商品」として取り扱い、家父長制的な考え方に深く根づいたジェンダーをめぐる固定観念を、いつまでも持続させているとして、一般世論は、こうした事業を強く非難している。

    花嫁が搾取や虐待、社会的排除(社会的・言語的孤立、移民という脆弱な地位、受入社会での偏見および低所得)を受ける可能性を高める重大な要因は多くあるが、メディアや政府は、このような見合い結婚の最も悲劇的な側面を強調するのが常である。移民の花嫁は、人身取引と家庭内暴力の被害者として描かれ、結婚仲介業者はこれら女性の搾取者、虐待者とみなされているのである。例えば、中国東部福建省の警察は2013年12月、ベトナム人の花嫁を含む100件の人身取引事件を暴き出し、28人の被害者を「救出」したことを発表した。

    この事態を受け、東アジアのほとんどの国は、結婚目的の移住の制限に着手した。例えば、韓国は最近、これら女性に言語運用能力テスト合格を要求するとともに、韓国人のパートナーに対し、1万4,000米ドルを超える年収があることを証明するよう義務づける規制を導入した。さらに、結婚移住が労働移住のための「裏口」とならないようにするため、二重国籍を認めていないケースも多い。その他、フィリピン(1990年)、ベトナム(2003年)、カンボジア(2008年)、台湾(2008年)等、こうした措置に代えて、営利結婚斡旋業者の営業を直接禁止した国もある。

    台湾における営利結婚斡旋業の禁止

    商業的(営利目的の)結婚斡旋業者が、台湾での国際結婚斡旋から得る利益は、女性の権利団体や国際人権機関により以前から大きな問題とされてきた。これら組織は、こうした結婚斡旋業が、移住する花嫁の搾取や人身売買の根源だと見ている。内外からの圧力の高まりを受け、台湾は営利結婚斡旋業者の規制から、2008年のその全面禁止へと段階的に政策の方向性を変えていった。その結果、400社を超えていた登録斡旋業者は閉鎖され、非営利の国際結婚斡旋団体41団体のみが活動を続けることになった。

    移民女性と結婚する台湾人男性の割合は急減したものの、国内の外国人配偶者の数は依然として多数に上る。営利結婚斡旋業者が事務所を移転して営業したり、形を変えて、闇に近い活動を行ったりすることも多くなっている。例えば、移民の花嫁は韓国やシンガポールなど、結婚仲介業の規制が比較的緩い国に移住することを選択できる。しかも、台湾で活動する非営利結婚斡旋団体の中には、単に事業形態を「会社」から「協会」に変えて、禁止措置の適用を回避したものが多い。

    禁止措置は正解か

    国内での営利業者の禁止措置は、花嫁が直面する問題を解決したとも、結婚斡旋サービスに対する需要を大幅に低下させたとも見られない。むしろ、この措置はこうした事業を闇市場に追いやることで、かえって監視を困難にしている。法的基盤の欠如こそ、移民の花嫁たちをさらに脆弱な状況に追い込んでいる原因なのである。

    同様に、安全な移住経路が減ったことにより、女性は人身取引者や密航斡旋者による搾取を受けやすくなっている。入国管理の強化が、人身売買を予防するどころか、その拡大をもたらしたという例は、多くの社会で何度も見受けられる。

    そのため、結婚移住において人身取引や家庭内暴力の事例が確認されている場合はとくに、政策立案プロセスにおいて、 女性が結婚移住に踏み切る際の様々な事情を考慮に入れるべきである。

    国際移住機関はこの点に鑑み、新郎新婦となる予定の男女に正確な情報を提供する法的責任を業者に負わせるという、(全面禁止ではなく)追加的要件を伴う規制アプローチの導入を求めている。

    移民の花嫁:独立と交渉力

    移民の花嫁たちは一般的に、ほとんど、ないしはまったく力を持たない被害者として捉えられることが多いが、この考え方は偏狭であると思われる。花嫁候補たちには前もってリスクの理解や評価をする能力がない、と考えるべきでない。フェミニストの哲学者マリア・ルゴネスが「メール・オーダー・ブライド」について語っているとおり、これらの女性は単なる被害者ではなく、主体であり、活発な存在であり、抵抗者であり、ビジョンの保有者でもある。

    女性たちは嫁ぎ先の家庭の中で、自分自身のやりたいことをするための空間を交渉で獲得してゆくことが多い。例えば、家の外で仕事を見つけ、その稼ぎを本国に残る家族に送金するケースも見られる。しかも、結婚した移民女性はしばしば、自発的に地域の物の考え方に挑み、否定的な固定観念や差別の構造と闘っている。事実、移民の花嫁は家族間だけでなく、自分たちが暮らす地域や社会間の橋渡しをする重要な文化的仲介者になることもできる。

    仲介業者と移民女性との関係を、「加害者」が「被害者」を搾取するという単純な構造で捉えることもできない。移民の花嫁たちは仲介業者と継続的に交渉し、彼らの協力のもと渡航の手配をする。研究者たちは、すべての恋愛関係の商品化が搾取に当たるという一般的な認識を批判している。結婚斡旋にカネやモノの交換が絡むことは非常に多いが、だからと言って、このような業者と関わり合いになる花嫁候補がすべて虐待や人身取引の被害者だというわけではない。事実、このセクターは男女双方にエンパワーメントの可能性も提供しているのである。

    よって、外国人の花嫁を受動的な犠牲者と捉えるか、能動的な主体と捉えるかという二者択一的議論には意味がないと思われる。むしろ、もう少し異なるアプローチを取り、彼女たちの人生の軌跡は安定していないという認識に立つほうが、より妥当な政策の策定に資することになろう。

    新たな前途?

    国際「結婚産業」の根底にあるのは、ジェンダーと社会経済の不平等である。しかし、この文脈で見る限り、自由と強制、エンパワーメントと服従という、正反対と捉えられることが多い概念の間の境界線は、ますます曖昧になりつつある。こうした女性は、渡航の際のリスクや障害に直面しながらも、人生でよりよい機会を得るために、結婚移住を選択している。その倫理性うんぬんを判断するよりも、このような関係やプロセスの当事者が恋愛の商品化をどのように捉え、感じているかに焦点をおくべきである。

    政策立案者は、この観点を出発点として、女性の移住を制約している法的な障害を緩和し、移住先での受け入れを促進する措置を考案、実施してはどうか。こうした女性の脆弱性の背景となっている構造的要因にこそ、取り組むべきである。

    最後に、移民の花嫁に対する偏見や型にはまったイメージを排除するための重要なツールとして、メディアと教育を考えるべきである。それは、社会の認識なしに、新たな前途はあり得ないという単純な理由からである。