2011年10月27日
Photo: Ryo Murakami
石川県で炭焼職人たちに仕事への意欲をわかせ、やりがいを感じさせるものは何かと尋ねると、管理不足による森林の劣化を食い止めることだと答える。高齢者にとって、この仕事への情熱は子ども時代の思い出に由来している。幼かった20世紀中ごろ、彼らは石川県の山間の村で日が差し込む森の中で遊んだり、しいたけを採ったりしていのだ。
日本の他の地方同様、ここでも人里のすぐそばの森は昔から薪、炭、材木、非木材林産物を作るため管理されてきた。人の管理が行き届いた落葉樹の森「里山」が、その奥の手つかずの自然が残る「奥山」と人里を分けている。里山には常に人の手が入ることによって、再生の各段階にある落葉樹が隙間をあけて並んでおり、その様子は奥山のうっそうとした暗い成熟した森の様子とは全く様子が異なっている。
親しみやすい里山となじみの薄い奥山は日本文化の中でも全く異なった様子に描かれている。民話や文学では、森は入ってはいけない恐ろしい場所として描かれることが多い。そこにはヘビやキツネやくちばしと羽を持つ「天狗」など恐ろしい動物(実在するものもそうでないものも含め)がうようよいる場所だ。
その一方で、風が通り、葉の間から日差しがたっぷり降り注ぎ、地面に花や野草が育つ里山は多くの人に慕われていることが、特に森林観光の分野での社会学調査でわかっている。地域社会、そして日本の社会全体にとっても、里山の森は所属の意識や文化的アイデンティティと深く結びついている。
同時に里山が資源や生態系の機能を持続可能な形で管理している点にも注目が集まるようになってきた。この管理形態は地域社会の食料確保や生活には欠かせないものだ。薪、木炭、材木、非木材林産物を十分得るため木の刈り取りや他の資源の採取は森の自然な再生のリズムに合わせて注意深く行われていた。例えば落ち葉を肥料に使うなど、森林管理は機能的に農業活動と結びついていた。
里山の管理は地域の土地管理の一部として江戸時代(1603年-1868年)に始められ、第二次世界大戦後も数年間続けられた。その管理形態によって、森に差し込む光の量が増えただけでなく、必要とする光の量が異なる様々な生物種も多くなり生物多様性を維持できるようになった。第三次生物多様性国家戦略による 最近の報告では日本の野生植物と絶滅の危機に瀕した動物のなんと半数近くは里山に生息しているという。
地方の昔ながらの生活様式が失われ、地方では過疎化と高齢化が進む中、かつての日差しにあふれた里山の森は成長の早い竹などに乗っ取られようとしている。
森林管理と関わりのある伝統の技術と工芸への関心が、ここ数年再び盛り上がってきた。職人の技を必要とする炭焼きは、里山の保全や復元に貢献できるものとして注目を集めている。
1950年代まで炭は日本の生活に極めて重要なものだった。家庭で炭を焼き燃料とすることは2000年前ほどに広まった。それにより縄文時代(紀元前14,000年~紀元前300年頃)の床の中央に炉がある竪穴式住居から、弥生時代(紀元前300年~300年頃)の高床式住居へと遷り変わってゆくことになる。木炭を使った鉄の溶鉱炉もおよそ2000年前に現れたとされており、日本の冶金時代の幕開けとなった。
何世紀もの間、炭は料理、酒の蒸留、鍛冶、薬、化粧など日本文化の様々な面で欠かせない要素だった。そして日本の物質文化の最も偉大な作品を生み出すエネルギーでもあった。例えば奈良の東大寺の大仏は銅製だが、史上で最も多くの木炭がその鋳造に使用された。日常生活では暖房と料理に炭を使うことが最も一般的だった。
最近まで日本の伝統的な家には居間の中央に「いおり」があり、家族はそこで料理をし、食事をしながら団らんのときを過ごしたものだった。さらに各種の持ち運びできる火鉢や暖房器具が作られた。中にはセラミック製や木製の火鉢や、布団の中で足元を温める「あんか」、手を温める「手あぶり」、持ち運べる「カイロ」などだ。炭は社会的階層にかかわらず全ての人々にとって、そして日本経済全体にとって重要な地位を占めていたのだ。
日本海に面する石川県には炭焼きの長い伝統がある。現在は石川県として統合されているかつての加賀と能登は室町時代(1336年~1573年)に、質の良い炭を作る地方として知られるようになった。江戸時代(1603-1868年)、加賀を統一していた加賀藩が敷いた法では金沢の城下町と残りの領土の炭の需要は地元産のものだけを使うことが定められていた。
炭焼きは茶道の伝統にも欠かせないものだった。当時茶道は加賀藩の厚い保護を受け、武士たちの間で人気の芸術的、文化的な活動だった。茶道との関わりにより炭焼きの技術は洗練され芸術の域へと高められたのである。炭は実用的な機能性と美的な魅力で重宝された。そして繊細な菊の模様のお茶炭は現在も日本の炭焼きの最高傑作とされている。
1868年の明治維新後、産業化と生活水準の上昇によって炭の需要が増し、政府も地方自治体も技術革新による増産活動が行われるようになった。そして19世紀の終わりには森へ出入りできる石川の村人たちにとって炭は県外との大切な取引商品となった。
しかし第二次世界大戦後に社会経済の変化が起こると、生産量は劇的に減少する。電化とプロパンガスの使用が地方でも大々的に広まった。主要都市郊外は急速に広がって住宅需要が増え、森の木々は木材供給においつくため育ちが早い針葉樹が取って代わることとなった。田園地帯では雇用機会が少なく、地方から都市へどっと人が流れ出た。労働力が失われ、知識、技術がさびついていく中、炭焼きは減少し、同時に里山も廃れていくことになる。
最近、石川県では過去からの質の良い炭焼きの伝統を活性化させるイニシアティブと、森林の劣化要因に対処するためのイニシアティブが県内の地域社会や炭焼き職人、自治体によって興されてきた。こういった努力の中心となるのが伝統的知識と現在の社会経済的技術的革新を融合させて森林地帯を再生させようという動きである。
関連する伝統知識とは、森の季節周期の理解や、伐採技術、健康な芽が育つための切り株の管理方法、森林の多様性を維持し育てるための木々の種類に関する知識などである。
森林管理は炭作りには欠かせないものだが、そのイニシアティブを経済的に可能にするためには、新しい市場を見つけ開拓することがカギとなる。中国産や東南アジア諸国産の安価な炭やその他燃料が簡単に手に入る 状況の中、石川県の炭焼き職人は炭に含まれる土壌肥沃成分が健康によい点など、 新たな面に焦点をおいた市場開拓を目指している。
可能性のあるニッチ市場は、能登半島の炭焼きと金沢市の伝統文化である茶道を昔のように結び付けるところにある。金沢の茶の師匠たちは、ここ最近まで炭の生産地にはこだわらなかったが、最近は地元の生産者を支援しようと注目を向けるようになった。
添付のビデオ映像で見られる、現在日本で最も若い専業の炭焼き職人 大野長一郎氏は、植林活動を行っている。クヌギで最高品質の茶炭を生産しようというこの活動は、文化価値が伝統の生態系の知識と起業家的革新を結ぶエネルギーとなる好例といえよう。
二酸化炭素が増え、生物多様性が失われつつある現在、石川県の炭焼き職人が関心を寄せるのは二次林管理の生態系サービス評価の議論である。彼らはまた伝統の景観を保全するために炭が果たす役割について、消費者の間で意識が高まれば、さらに炭製品の価値も高まると考えている。
そのような活動は地元の努力として意義深いと同時に、持続可能性に関する世界共通の課題に対しても教育的である。例えば生産と消費の関係を再定義している点などだ。私たちは自分で購入する商品の背景に対しどれだけ関心を持てるだろうか?どの環境サービスやフェアトレードにならお金が払えるだろう?一個人として、大切な価値観をどのように実際のライフスタイルと結びつけることができるだろう。さらに大きな視点では、この価値観をより環境的に安定した資源管理としっかり結びつけるには、どのようにして政策や行動モデルを作っていくことができるだろう。
伝統の森林産業と茶道の慣例を結び付け、日が差し込む生態系多様な里山の森の光を織りあわせていく石川県の炭焼きの物語は上のような疑問の緊迫性を伝えると共に、答えの可能性をも伝えてくれている。
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このビデオは「里山/里海の伝統的知識・知恵の伝承―石川県の炭焼きと揚げ浜式塩田」の活動の一環として、石川県の協力のもと、国際連合大学のブランド・かおり氏によって製作された。
翻訳:石原明子