2012年1月6日
Photo: Arvind Grover
課題は明白だ。人口は増加し続け、炭素排出量が記録的な数値に急上昇する中、世界的な環境指標はどれも誤った方向へ向かっているように見える。しかし、楽観主義の余地は多分に残されている。中央アメリカの小国コスタリカでは驚くほど好ましい傾向が現れ続けているからだ。
当初、コスタリカの森林の物語は悲劇のようだった。1940年代、国土の75パーセント以上は手つかずの森林に覆われていて、そのほとんどは熱帯雨林だった。ところがその後の数十年間、無計画で激しい森林伐採が続き、国の貴重な森林資源が現金収入に変えられてしまった。 1983年にはわずか26パーセントの国土が森林として残るにいたり、森林の減少率は 年間5万ヘクタールに達した。
この時点で、驚くべきことが起こり始める。1989年には、年間の森林減少率が2万2000ヘクタールにまで減少した。1994年になると、さらに減少して4000ヘクタールとなり、1998年の森林減少率はゼロだった。今日、森林面積は 52パーセントまで拡大しているが(1983年の2倍)、政府はこの数字を70パーセントにまで引き上げ、 2021年までにカーボンニュートラル化を実現するという野心的な目標を打ち出した。
しかし、コスタリカはどのようにして、これほど驚くべき方向転換をなし得たのか? そして、それと同時進行で教育水準の向上や貧困の減少といった社会的指標 においても実にすばらしい結果を残せたのはなぜか? 現在、森林破壊や砂漠化や生物多様性の急激な喪失によって大きな打撃を受けている世界中の国も、同様 の成果を期待できるだろうか。
正しい組み合わせ
その答えは、倫理と環境主義と効果的な政策決定の組み合わせにありそうだ。コスタリカの主要な意志決定者たちの、既成概念にとらわれない発想を受け入れる姿勢は、1948年の常備軍解散の決定に表われているかもしれない。横浜にある国際連合大学高等研究所で行われた 2011年11月9日のプレゼンテーションで、コスタリカの在日大使アルバロ・セデーニョ・モリナリ閣下は、軍の解散は基本的に倫理的決断だったことを次のように語った。
「振り返りますと軍を解散してから63年が経ちました。一見、非常に型破りなこの決定は、追加投資を国の社会的および環境的プログラムに充当するという点で、 大胆かつ有効だったことが証明されました。これと同様の前向きな倫理観に基づき、国は1994年に憲法を改正し、「健康で生態学的に均衡のとれた環境に対 する(中略)すべての人の」権利を明記しました」
森林破壊のスピードを遅らせ、最終的にはその傾向を逆転させることにコスタリカが成功したのは、自国の生態系の価値を政策決定者たちが認めたからだ。特に農村地域での貧困の削減方法として 生態系サービスへの支払い(PES) の利用を決定したことも、成功の一要因である。コスタリカのPESプログラムの中核には、健康な生態系は幅広いサービスを提供するという理解があり、その サービスには炭素隔離、水のろ過、医薬品や自然薬の材料となり得る遺伝資源の生息地の提供などが含まれる。土地所有者に経済的インセンティブを提供するこ とにより、いわゆる コモンズの悲劇(誰でも利用できる無料の資源は時間の経過と共に徐々に劣化するという説)を回避することができる。
これらの政策は、経済的福祉は健康な生態系と密接に関連しているという理解を示している。セデーニョ・モリナリ大使は、次のように簡潔に説明している。
「私たちが使うすべての製品やサービスを生産するための工業・経済の全過程で使用されるすべてのエネルギーや原材料の100パーセントを、私たちは環境から得ています。100パーセントです。一部ではなく、すべてを環境から得ているのです」
1969 年、コスタリカは森林伐採認可の規制と森林局の創設を定めた最初の森林関連法を制定した。善良な発想にもかかわらず、この政策からプラスの結果が目に見え る形で表われ始めたのは10年近く経ってからだった。さらなる支援が得られたのは1984年、自然資源の保護に対する融資をアメリカ国際開発庁から受けた 時であり、さらに1989年、コスタリカの対外債務の返済分を環境保護活動に再投資できるように、再交渉が行われた。
その後、1996年、環境サービスへの経済的インセンティブを強化し制度化する国家森林財政基金が設立された。このプログラムの開始時に、保護された森林1ヘクタール当たり120USドルが支払われ、 今日までに2億3000万USドルが農村地域や先住民のコミュニティーや個人など、幅広い対象に支払われてきた。加えて、このプログラムは直接的に 1万8000人の雇用を生み、間接的にはさらに3万人の雇用を支援した。人口450万人という国にしては相当な雇用創出である。同プログラムの資金源は様々で、外債や寄付金、森林クレジット認証、化石燃料の利用税からの歳入などが含まれる。
環境に配慮し、かつ経済的であること
コスタリカの森林再生・植林活動への投資と経済的福祉の間には、明らかな関連が見られる。同国のGDPの50パーセントは観光関連であるため(冒険旅行やエ コツーリズムが大きな割合を占める)、環境対策に力を注ぐことは良きビジネスを意味しているのだ。カーボンニュートラル化を2021年までに実現するとい う目標の下、2007年にコスタリカ大統領が宣言した パックス・ナチュラ(自然との平和)イニシアティブは、環境対策を支えるさらなる倫理的基盤を確立した。
同イニシアティブのウェブサイトには、CO2排出量を測る炭素計算機も掲載されている。コスタリカが外国からエコツーリストを呼び込むことに重きを置いている点を考えれば、炭素排出は特に重要な問題だ。同イニシアティブの炭素認定プログラムは最近、国際的な CCB(気候・地域社会・生物多様性) スタンダードによりゴールド認定を受けた。
近年の世界的な経済・金融危機を乗り越えようとする取り組みによって、経済問題が政策決定における最重要課題のように思われているが、コスタリカの壮大な倫 理観は公共部門と民間部門の両方から共鳴を呼んだようだ。同国の大手ビール製造会社の1つ、フロリダ・ベビダス社を含む企業は、企業の社会的責任という責 務を引き受け、ウォーターニュートラルや廃棄物ゼロを目指す 自主的な目標を設定した。こうした目標は今日の世界において奇異に映るかもしれないが、コスタリカでは環境主義のサイクルが根付いているようであり、フロリダ・ベビダス社の最近の発表を見る限り、その傾向は今後さらに強まりそうだ。 発表によれば、製造過程や保存、管理施設で出される廃棄物を99.4パーセント削減することに成功したのだ。
しかし、世界が相互につながり、依存し合う現状を考えると、コスタリカの成功は全世界の成功でもある。コスタリカの熱帯雨林に存在するような生物多様性は、 製薬会社にとって途方もなく重要な新発見につながる宝庫であろう。加えて、同国が提供するエコツーリズムは、ある人にとっては単にリラックスできる休暇か もしれないが、現地を訪れた人々の心に環境保護に関する新たな認識を芽生えさせる可能性がある。
世界に示す教訓
コスタリカの政治家やビジネスリーダーたちが下した決断のうち、どれが他の国でも採用できるかを予測するのは難しい。当然、すべての国が国際的エコツーリズ ムに大きく依存できるわけではない。しかしコスタリカでは、健全な経済は健全な環境なしに長期的に存続するのは不可能だとする基本的認識が共感を呼んだよ うであり、それが基盤となって公共部門と民間部門の両方で環境に配慮した意志決定が何十年も行われてきた。恐らくコスタリカが世界に与えた最大の貢献の1 つは、公共部門と民間部門が共有し、国全体に利益をもたらす環境的倫理システムを国が確立することは可能であると単純明快に示したことだと言えよう。
このような環境に関する明るいニュースを珍しく見かけると励みになるものだが、世界中の政策決定者たちと同様にコスタリカのリーダーたちも今後、厳しい課題 と困難な決断を迫られるという点を指摘しておくのは重要だ。例えば、コスタリカは森林破壊の傾向を逆転させるという快挙を遂げたにもかかわらず、 複数の報告によれば、 同国のバイオキャパシティーは引き続き減少している。その原因はまだ不明だが、大規模な生態系の変化による負の影響が今後数十年間に渡って続き、そうした プロセスを遅らせたり逆転させたりするための大幅な対策が講じられた後でもその影響は続くという、ゾッとするような説もある。
同様に、コスタリカの国民1人当たりのGDPが増えれば、現在、 輸入化石燃料に依存している輸送部門も成長するため、エネルギー需要も増大し続ける。現在の エネルギー需要の99.2パーセントは再生可能資源で賄われているが、再生可能エネルギーの増産の可能性は限られており、 マイナスの副作用を及ぼすかもしれない。 コスタリカは火山から得られる豊かな地熱エネルギーを利用するだろうか? しかしすべての火山は現在国立公園内にある。それとも、国内の河川に水力発電所 を増設し、その環境コストを受け入れるだろうか? あるいは、新たな革新技術がもっと魅力的で環境に優しい方法を生むだろうか?
環境破壊に関する大量の報告は、最も楽観的な政策決定者さえも圧倒するほどの勢いであるが、コスタリカを訪れることは(文字どおり)一服の清涼剤となるかも しれない。1992年の地球サミットの20周年を記念するリオ+20会議が間近となり、世界の目は今まで以上に2012年の環境問題に注がれることだろ う。
過去30年間のコスタリカの偉業を深く考察することが、世界規模の現実的な変化を起こすための、ちょうどよい弾みとなるかもしれない。
翻訳:髙﨑文子