2012年7月25日
UN Photo/Mark Garten
フランスの作家ギュスターヴ・フローベールは「我々が自分たちの生きる時代を中傷するのは、歴史に無知だからだ」と大胆に指摘した。国連持続可能な開発会議(リオ+20)は現在、容赦ない批判に直面しているが、批判のすべては本当に正当だろうか? 実際には、明らかにポジティブな成果が幅広くある点がほとんど無視されているように見受けられる。
恐らく世論は時間の経過と共に変化していくだろう。しかし今、必要なのは、流れを軌道に戻し、リオ+20の過程で生まれた勢いを維持するために、歴史的観点から見て妥当な建設的楽観主義である。
合意文書は人類の歴史上、ずっと重要な役割を担ってきた。しかし、すべての当事者を満足させることは(あったとしても)まれである。例えば、西洋世界では最も有名で高く評価された合意文書の1つ、すなわち1776年7月4日に調印された、アメリカ合衆国独立宣言書がいい例である。
この宣言書でさえ厳しい草案段階を経たという事実は忘れられやすい。トーマス・ジェファーソンによる初稿(基本的に素案)は大陸会議に提出され、2日間にわたって1行ごとに精査された。最終的に初稿の4分の1以上が削除され、その中には奴隷制度を非難する決定的な条項が含まれていたため、ジェファーソンは深く落胆した。
しかし最終的には、改訂された独立宣言書は必要数の署名を得て採択された。確かに完ぺきなものではなかったし、すべての人を満足させられなかったが、宣言書そのものの目的を果たした上に、国民に勇気を与えた。独立宣言書には、この国の新政府が果たすべき目標も、指標も、義務も、提案も書かれていない。そこにあるのは、共通の不満と、当時の政治的および社会的環境に適合した共通の目的に関する力強い宣言だけである。
リオ+20に対する批判ラッシュのさなかで、1992年の国連環境開発会議(地球サミット)に関する議論も、ほとんど忘れ去られてしまったようである。歴史はこの第1回会議に対し、より寛大な判断を下したように見えるが、この会議も開催当時、「旧態依然」で「地球の生命のための新たな方向性を打ち出せなかった」として批判された。ところが、それから20年後、地球サミットは「有り余るほど豊かな政策」を打ち出した「並外れた」出来事として記憶され、リオ+20の成功を測る尺度として広く使われているのである。
主要な国際会議は批判されやすいものだと受け入れるのであれば、リオ+20が実際に何を生み出したのか検討し、その有用性(あるいは無用性)に関する最終判定は未来の歴史家たちに任せることが重要である。
リオ+20の成果文書『我々が望む未来』が完ぺきな文書であると主張する人はほとんどいないだろう。しかし、世界各国の政府が何に合意できるのかを示す貴重な記録ではある。実際、持続可能な開発の実現に特に関連したパラグラフは300近くあり、「世界の持続可能な開発の方向性を決定する上で非常に重要な」グリーン経済への移行を特筆し、持続可能な開発のための組織的枠組みを向上させることに触れている。これは1992年以降の変化した世界への確実な同意であり、輸送、都市、災害リスクの削減などのテーマ分野への言及を含む行動のための枠組みへの同意でもある。
さらに第1回地球サミットでのコミットメント(約束)を各国政府に更新させるという、すばらしい功績もあった。持続可能な開発に関する話し合いが「グリーン経済」の専門用語に丸ごと置き換えられてしまう、あるいは環境に関する交渉において20年以上も時間が逆戻りしてしまうのではないかという懸念があった。しかし最終的には、そういった分野での後退はまったくなく、その他の分野では明らかに具体的な前進が見られた。
重要なことだが、リオ+20は各国政府が何に合意できないのかも示した。しかし、対話と意見の不一致は、さらに理解を深める過程では必要かつ健全なステップである。不明瞭な言葉遣いはより明確にされるべきであり、曖昧な発言は問いただされるべきだ。
多くの点で合意もあった一方で、リオ+20はどのような分野で意見の不一致があるのかを明確に特定する重要な機会だった。それは、そのような争点をいずれ克服するための過程における極めて重要な第一歩だ。話し合いの価値は、それが合意に達するか、意見の対立を明るみにするかに関係なく、過小評価されるべきではない。世界中の市民社会グループや地方政府が見守り参加する話し合いでは、なおさらである。
リオ+20はまた、多国間主義の拡大を特徴とする根本的な地政学的変化を強調した。いわゆるBRICs諸国(ブラジル、ロシア、インド、中国)が世界的議題を形成する上でより大きな役割を担うようになったからだ。
1740年代に世界を周航していたジョージ・アンソン提督率いる英国艦隊の乗組員たちは、果物や野菜が不足した偏った食事が原因で壊血病に襲われた。生き残った乗組員が乗った船は、無人のファン・フェルナンデス諸島の海岸にやっとのことでいかりを下ろしたが、多くの乗組員が毎日、壊血病で倒れていった。アンソン提督の部下たちが回復しつつあった時、彼は島に上陸して、アンズ、プラム、サクランボの種をまいた。諸島にやってきた後続の船団は、どうしても必要だった新鮮な果物がたわわに実った木々を発見した。その木々の末裔は、250年以上経った今日でも島に生き続けている。
老いた人々が木々を植え、その木陰に自分たちが座ることは決してないと知っている時、社会は偉大になる。 — ギリシャのことわざ
リオ+20では、未来の世代に対してこれと同じ程度の考慮が明らかに見られた。代表団は現世代のための未来だけでなく、将来の世代のための未来を考慮したのだ。そのような例の中でも、恐らく最も勇気づけられるリオ+20の成果が、世界中から寄せられた700以上の自発的なコミットメントで構成される実に幅広い誓約だ。その誓約のどれも、ギリシャのことわざのように、いつの日か未来の世代に糧を与えることになるだろう。
全体として、自発的なコミットメントは持続可能な開発目標に向けて5000億USドル以上の資金を動員するだろう。200以上のコミットメントが持続可能性に関する高等教育イニシアチブの下で集まり、「すべての人に持続可能なエネルギーを」イニシアチブの下では150以上が集まった。
劇的だったのは、モルディブ共和国の大統領が2017年までに、1192つもある自国のすべての島々を世界最大の海洋保護区に制定するコミットメントを発表したことだ。
多くの人々は、リオ+20の成果文書には拘束力のあるコミットメントが欠けていると嘆く。しかし、言葉が具体的な行動となり、それが文字通り世界を変えることができるのだと最も強く示唆したものが、ひたむきな自発的コミットメントなのだ。
リオ+20は大規模だったという点には誰もが合意できるだろう。リオデジャネイロでの会議には約5万人が出席したと推測されている。主要な会議場だけでも、500以上のイベントが開催され、さらに何百というイベントが近隣の会場や、実際の会議が始まるまでの期間中に行われた。こうした活動のすべてが、世界で最大規模の国連会議において最高潮に達して大きな波及効果を生み出し、各国首脳が集結し共通の目的を掲げた成果文書に合意したのだ。
リオ+20が始まるまでの数ヶ月間、グリーン経済への移行による持続可能な開発の実現という展望に関して、議論と関心が着実に高まっていった。しっかりとした研究に基づく出版物が広く読まれた一方で、ニューヨークからナイロビにいたる各地でのイベント会場やコーヒーショップや会議室では、ガバナンスや環境問題や社会問題に関するディスカッションが行われ、持続可能な開発に関する主な問題や未来に向けた選択肢をさらに明らかにしていった。
リオ+20開催中の議論について言えば、そのプロセスは過小評価されるべきではない。様々なステークホルダーが参加し、リオ+20のプロセスがアイデアやメッセージをさらに洗練したという事実は、すべての関連組織が今後、成果文書で合意された正式手続きを行う際に揺るぎない基盤となるだろう。成果文書は私たちが望んだものよりも頼りないとしても、間違いなく私たち、すなわち持続可能な開発を望む社会は、以前よりも強くなったのだ。
私たちが前進するための課題は、こうしたエネルギーを維持し、満たされなかった期待から生じたかなりの悲観主義に直面してもなお、本会議の重要な成果の上に未来を構築することである。1992年の地球サミットが閉幕した時、ブラジルのフェルナンド・コロール・デ・メロ大統領は「リオ会議はリオで終わるのではない」と強調した。それから20年後、潘基文(パン・ギムン)国連事務総長も次のように賛意を表明した。「地球サミットが閉会した今、本当の仕事が始まり、私たちの誰もが究極的な成功のために役割を担っているのです」
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2012年7月24日~25日に横浜で開催される持続可能なアジア太平洋に関する国際フォーラム(ISAP2012)は、リオ+20に関する対話を続け、同サミットの前向きな成果を確固たるものとするすばらしい機会です。リオ+20の成果の検証は、レジリエンスのある社会、グリーン経済、気候変動と並ぶ、ISAP2012の主要テーマです。