気候変動の被害者

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  • 2012年1月27日

    ヴェセリン・ポポフスキー

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    Photo: L. Patron/UNU

    人間は、戦争や犯罪などにおいて、他の人間の行為の被害者になることがある。人間は自然の被害者になり、地震をはじめとする、さまざまな危険を被ることもある。地球資源の過剰消費の影響により、気候変動が引き起こされる場合、自然は人間から被害を受けることがある。そして人間は、皮肉にも、人間が負わせ、自然が受けた被害によって気候変動の被害を受けるかもしれない。

    人間が引き起こす災害には、帰すべき明白な罪や責任があり、またその被害も明白だ。自然災害の場合、被害は明らかだが、それが「母なる自然の怒り」によって生じるため、直接的な責任は明らかではない(ただし間接的な責任については政府の責任を問える場合もある)。気候変動による災害と被害者に関して言えば、興味深い事態を目の当たりにする。各国政府、民間企業、贅沢な過剰消費型の生活を送る個々の人間など、誰もが加害者になり得るのと同時に、誰もが被害者になる可能性もある。

    災害の種類

    直接的な責任

    間接的な責任

    政治的/軍事的な災害:武力紛争、内戦、残虐行為、テロ 各国政府

    反体制派勢力

    民間企業(兵器産業)
    経済的な災害:

    中国の文化大革命、

    1989年以前のルーマニア、

    ジンバブエ

    各国政府 民間企業
    環境的な災害:

    1984年ボパール、

    1986年チェルノブイリ、

    2010年 BP社の原油流出

    民間企業 各国政府は規制を行い、影響を抑え、汚染者を罰することができる
    生物学的な災害: 

    ウイルス、疾病、伝染病

    「母なる自然」 各国政府、民間企業は研究に資金を提供し、予防措置を講じ、影響を抑えることができる
    自然災害: 

    地震、津波

    「母なる自然」 各国政府、民間企業は災害に警告を発し、影響を抑え、人々を備えさせることができる
    気候変動による災害: 

    海面上昇、異常気象、頻発するサイクロン、洪水、熱波、火災

    すべての人

    さまざまな種類の災害が相互に結び付くこともある。疾病と伝染病は、武力紛争や壊滅的な地震の結果、蔓延することがある。自然災害が紛争解決のきっかけになることもあれば(2005年、アチェ)、大災害の直後に人々が協力して助かることもある(2011年、東北)。しかし、自然災害は、暴動を招く恐れもある(2005年、ハリケーン・カトリーナ)。自然災害は、気候変動に人為的な要素が加わることで激化し、これによって「自然」の要素が薄れ、人間の責任が拡大する。

    近刊のSustainability Science Journal(サステイナビリティ・サイエンス・ジャーナル、2012年1月)の論文で、私はこの新しい型の被害を紹介し、予防策、説明責任対策、環境裁判、気候変動の被害者を救済するための補償制度に関する研究の機会をさらに拡げようと考えた。

    私が主張する、気候変動の被害者とは、以下の通りである。

    ・凶悪犯罪の被害者とは異なる。凶悪犯罪の被害者は、加害者を明確に特定することができ、法の執行と刑事司法制度によって扱われる。それとは対照的に、気候変動の被害者に関しては、加害者を特定することができないので、犯罪の捜査および加害者の起訴に基づいて行われる従来の刑事司法制度は役に立たない。

    ・環境的な災害の被害者とも異なる。上記の犯罪と同様に、たとえば、産業公害や原油流出の場合、通常、企業責任を問い、捜査、起訴することができる。2つの被害には関連がある。つまり、産業で自然資源を過度に利用し、生態系に影響を与えることにより、環境的な大災害と気候変動の両方を引き起こす。環境法は、企業汚染者に対処し、被害者に補償するための訴訟を構築したが、これが、気候変動の被害者のための補償制度を構築する土台として機能するかどうか、その可能性を探ることは興味深いものとなるだろう。

    ・自然災害や人間活動の影響を受けていない事象の被害者とは異なり、気候変動の被害者は、必ずしも単独の自然災害によって被害を受けたとは限らず、気候変動に誘発された状況の悪化により徐々に被害者になった個人や集団である。

    ・国の作為または不作為による人権侵害の被害者である可能性がある。清潔で健全な環境で生活し、関連情報を利用する権利についての認識が高まりつつある。国が国民に対して自然災害の警報を発して避難支援をすることを怠った事例が、欧州人権裁判所(ECtHR)で争われた。Budayeva対ロシアの裁判では、国の違反を認め、被害者に賠償金が支払われた。人権法と法廷の訴訟手続が、今後、気候変動による被害に関して利用することができるかどうかは興味深く見守っていきたい。

    ・必ずしも強制移住をさせられた人々ではない。ただしこの点に注目する論文は多い。気候変動の被害者は移住者ではない可能性がある。それどころか、移住自体は、被害者にしないための有効な手段であり、適応戦略になり得ると私は主張する。

    最初の2点の違いは明白であるため、以下では、最後の3点を中心に論じる。

    気候変動の被害者は自然災害の被害者ではない

    状況、条件、結果、認識が類似しているようでも、1つの環境事象(地震など)の直接の結果として被害者になることと、長期的に人間が引き起こした気候変動の結果、被害者になることには違いがある。大勢の人間に影響を与える壊滅的な自然事象は、大昔から記録に残っているが、気候変動によって生じた人為的な異常気象の増加は、被害要因として最近になって言われるようになってきたものにすぎない。しかし、今日、単独の自然災害が発生することがあれば、その影響を受けた人々は、ほぼ確実に、その原因は人間の機関(通常は行政機関)にあると考えるだろう。自然災害の頻度が増す場合には、なおさらであるかもしれない。オーストラリア(2009年)やロシア(2010年)での壊滅的な火事は、世間一般の認識のみならず、科学者の間における認識でも、人為的な気候変動によるものだ。

    科学が発展し、各国政府がさらに成長し、グローバル・ガバナンスの制度が構築されるにつれて、自然災害の被害者は、(相応に)要求が多くなっていく。被害をもたらすものは、災害というよりむしろ、早期警戒の欠如、不十分な災害への備え、政府機関の災害対応能力の欠如が原因なのでる。人々を被害者にするものは、お粗末なガバナンス、過失、災害の早期警戒と早期対応の欠如から生じる被害など「母なる自然」のなせる業だけではないため、そうした被害は人権侵害であると考えられるのである。

    気候変動の被害者は人権侵害の被害者

    国家が有効に対応できない場合、救援活動が軽視され、あるいは遅れて、人々の自然災害から受ける被害が増す場合、被害者は裁判を求め、補償を請求することができる。ハリケーン・カトリーナの被害者は、2009年11月18日の画期的な判決に救われた。この判決は、陸軍工兵隊がミシシッピ川湾排水路(Mississippi River-Gulf Outlet)を適切に維持、運営しなかったため、堤防の決壊を招き、ニューオーリンズの大規模な洪水を引き起こしたという過失を認めた。

    Guerra他対イタリアの裁判では(HUDOCデータベース参照)、事故歴のある高リスクの肥料工場の近隣に住む申請者が、地域の緊急避難計画に関する情報を拒否されたと欧州人権裁判所(ECtHR)に訴え、ECtHRは、欧州人権条約第8条の違反を認めた(極めて重大な環境情報を知る権利を確立する重要な前例)。人命の損失を含む、さらに深刻な事例である、Oneryildiz対トルコでは、埋立地における火災により、申請者の家族が亡くなり、ECtHRはGuerraの裁判と同様、「そうした危険を伴う活動に関しては、明確で完全な情報の開示が基本的人権であるとみなされる」と認めた。GuerraとOneryldizの判決により、市民の生命と健全な生活に対しリスクを与える可能性のある危険について、国が市民に情報を提供する責務を構築することができる。

    気候変動に伴うリスクは、多様化し、特定することが困難である。しかし、上述の判決の論理は、政府は気候変動が引き起こす異常気象に備えて、必要な情報と不測の事態および緊急時の対策を保持し、そうした情報を市民に開示する義務があることを示している。

    さらに2件の事例において、ECtHRは、洪水(Murillo Saldias)と土砂崩れ(Budayeva)(将来起こり得る気候変動による被害の状況に非常に近い危険事象)の結果、人命の損失を防げなかった国の怠慢に対処した。豪雨の後にキャンプ場で発生した洪水で人命が失われた、Murillo Saldias対スペインの裁判では、ECtHRは、手続き上の理由で適用が不十分だったと判決を下したものの(限定的な国の救済策)、この判決は、国民を洪水から守る国の責任を審議する前例となった。

    Budayeva対ロシアの訴訟は成功し、判決は、繰返し発生する災害の犠牲になり得る者に対し警告を与える国の義務を確立した。2000年7月、壊滅的な土砂崩れがコーカサスのTyrnauzで発生し、8人が亡くなった。さまざまなタイプの土砂を抑えるダムが町を守っていたが、以前に発生した土砂崩れにより著しく損壊し、科学的な調査により警告が出されていたにもかかわらず、修復されていなかった。土砂崩れが発生する2週間前には、専門家が災害救助を担当する地方政府に対して、差し迫った危険があることを警告し、人々に避難警報を出すための監視所を設置するように要請したが、そのような措置は講じられなかった。裁判所の判決は、ロシアの「生きる権利を保護する国の明確な義務を遂行しなかったこと」と、とくに、その地域がとりわけ土砂崩れに脆弱で、住民が「死亡リスク」にさらされていたのにもかかわらず、「当局が土地計画と緊急救援策を実施しなかったこと」を認め、すぐれた前例となった。

    Budayevaの判決は、度々発生する自然災害に際して、実質的にも(保護・防御インフラを維持しないこと、避難警報を出さないこと)、手続上でも(犯罪行為として過失を調査しないこと)、市民に警告を発する国家責任を確立し、具体化した。判決は、リスクを軽減し、警告を与え、避難を容易にし、過失を調査することが繰返し行われなかったという性質から、気候変動による被害にも前例として役立つ可能性がある。

    気候変動の被害は、市民権や政治的権利の侵害のみならず、社会的権利や経済的権利の侵害にも関わる可能性がある。実際、被害者は政府による積極的な予防義務を必要とするため、おそらく、社会的・経済的権利について言及することが多いかもしれない。人権に基づくアプローチは、炭素税や汚染者に対する規制など、気候変動による悪影響を緩和あるいは回避する政府の取り組みの中核をなすべきであるが、気候変動への適応対策の中心にもなるべきだ。適応対策における積極的な義務の実施により、人間の安全保障を強化し、維持することができる。社会的・経済的権利の充実は、つまり、回復力を構築し、気候変動の課題に適応するための関連要因としてみなすことができる。

    気候変動の被害者は移住者ではないかもしれない

    気候変動の被害者は、必ずしも、気候条件が悪化した結果、移住する人々であるとは限りらない。ハリケーン・カトリーナの被害者は、とどまった人々が大部分で、移動した人々は少数だった。学術論文が「気候変動難民」を中心に扱う理由は、ひとつには、難民研究の分野(被害者学の研究よりずっと進んでいる)が、気候変動と強制移住の関連に関する研究に積極的に取り組んでいるからなのだ。しかし、私は「気候変動難民」という用語の使用には疑問を持っている。というのも、彼らは、政治的な理由で迫害される人々を対象とする、1951年の難民条約で定義されたような「難民」ではないからだ。つまり、彼らは「強制移住させられた」人々であるため、「気候変動による強制移住」という用語が適切である。さらに実質的には、気候変動の被害者は移動する人々ではないかもしれないというのが私の主張である。適切に規定され、補償された自主的な移住はむしろ、気候変動に適応するための重要な手段になる可能性がある。

    気候変動によって2050年までに2億5千万人もの移住者(深刻な徴候もないのに、真面目な学者でさえ度々引用する数字)が発生するかもしれないと予測することにより、気候変動に対する認識を高め、政府に注意を喚起する一助になるかもしれない。グウィン・ダイヤー氏の著書『Climate Wars(邦題:地球温暖化戦争)』は、そうした警鐘を鳴らすものだったが、十分な裏付けはなかった。地球温暖化は、過去30年から50年にわたり進行しているが、戦争の数はその間、実際のところ劇的に減少している。人々は、危険に直面しているからといって、必ずしも争わない。危険を軽減するために協力することもあるのだ。Marion Couldrey(マリオン・クッドリー)とMaurice Herson(モーリス・ハーソン)(2008年)をはじめとした研究では、今後の気候変動難民の概数や、その発生地域、移動先、必要とする費用を測定しているものの、依然として仮説に基づき、人騒がせなものである。

    確かに、移住者の数は、気候変動による移住者を含め、世界的に増加している。より良い仕事を求めること、あるいは、より良い生活条件を求めることは、人間にとって自然なことである。人々は、グローバル化により可能になったため、移動し続けるだろう。強制移住と自発的な移住の境目は曖昧になっている。なぜなら、人々はたいてい、現実のまたは潜在的な社会経済的ストレスあるいは環境上のストレスの程度を理由に移動するからだ。そのため、どの程度のストレスが、強制移住と自発的移住の境目になるのかということは興味深い問題である。人々の移動は、半強制的/半自発的であることも多々あるのかもしれない。多くの人は生まれ育った故郷の近くにとどまり、働き、住み続け、そこで死にたいと思うものだが、経済的・環境的条件により移動を余儀なくされる可能性もあ。この意味では、経済的な移住は気候変動による移住に似ている。

    問題である、というより、よく耳にすることだが、移住(自発的で、もちろん人身売買ではない)はむしろ、政治、経済、社会、環境問題など、さまざまな問題の解決策になる可能性がある。移住は、たとえ数百万人規模の移住であっても、情報を十分収集したうえで被害の予防策として決定される場合、悲惨な結末ではない。海面上昇によって脅かされる沿岸地域における危険性は、数十年先だって予測することができ、人々は移住するか、とどまるか決めることができる。

    したがって、私は、気候変動の被害者に対処する場合、移住を切り離して考える。私の定義では、「気候変動の被害者」は、気候変動により深刻な影響を受けている、または深刻な影響を受ける可能性があると同時に、移住を含めた気候変動への適応策への人的、社会的、経済的な資本を十分に持たない人々である。もちろん、気候変動の問題に直面し、移住を余儀なくされ、回復力を持たない人々は、気候変動の被害者というカテゴリーの中でひとつの集団として考えることができる。

    この記事はSpringer Sustainable Science(スプリンガー サステイナブル・サイエンス)で公表された文献に基づいています。