金沢の生物多様性:夏に学ぶ教訓

トピックス
  • 2012年7月26日

    あん・まくどなるど , ラケル・モレノペニャランダ and ラウラ・ココラ

    Biodiversity in Kanazawa

    Photo: Ryo Murakami/UNU

    食べ物を作り、消費することは、生活の大事な側面の1つであり、生物と文化それぞれの多様性が交わり支え合う。金沢の食文化に影響を与えている生物多様性は、金沢の景観から地元作物の品種の多さに至るまで、生物多様性が存在するすべての場所に広がっている。金沢の彩り鮮やかな郷土料理は、素材と味の独創的な融合を見せており、周辺の海や野山で採れる新鮮な食材の種類の豊富さを表している。金沢市民の嗜好からも明らかなように、この街の食文化は連続栽培や伝統野菜の利用という点で重要な役割を果たしてきた。伝統野菜は長年にわたって望ましい特徴を獲得するよう選ばれ、この土地の土壌や気候などの条件に適合してきた。

    こうした伝統野菜の多くは夏の間に収穫期を迎える。金沢の夏は厳しい暑さと強い日差しに見舞われ、街全体のペースがゆっくりになる。厳しい暑さが和らいだ夏の夜には華やかな祭りに人々が集い、祭りに欠かせないものとして郷土料理がある。祭りは独特の文化的な自然観に基づいて作られた複雑な年間行事の1つであり、豊作祈願を目的としたものもある。

    これ以外にも、生物と文化それぞれの多様性が互いに影響し合う様子は、夏の娯楽である川釣りにも見られる。鮎釣りからは、娯楽の慣習と伝統文化の価値と美意識が結びついて食の生産活動につながっていく様子がうかがえる。

    加賀野菜:農業における生物多様性と文化的アイデンティティ

    7月、暑さがだんだんと厳しくなり真夏が近づくと、金沢のハス畑では深緑色の葉の間から白いつぼみが一斉に開花する。金沢におけるハスの歴史は長い。江戸時代に金沢城の池で観賞用に育てられたハスは、位の高い武士の薬としても使われていた。その後19世紀から20世紀にかけて根茎を食べる栽培用のハスが数種類この地域に入ってきた。これらのうち、繊維質の根がシャキシャキした食感に特徴のある1種が選ばれ、市民に愛される加賀野菜の1つとして今でも多くの人々に食されている。夏に金沢を訪れるなら、東から街に入ると、ハスの真っ白な花に迎えられる。

    1945年以前から継続して金沢で作られてきた伝統野菜のうち、15種類が加賀野菜として認定されている。加賀野菜とは、金沢市と農業組合によって設立されたブランドだ。市内の市場や食料品店の生鮮食品売り場の主役は加賀野菜であり、絶対に欠かせないものとなっている。買い物客はこれを見て、地元特産の様々な野菜と食と金沢市の文化的アイデンティティの結びつきに気づかされる。

    昨今では、現代的な品種の導入により伝統的な品種が絶滅するケースが世界中で増えている。そして伝統品種の保存と利用によって栽培種の多様性を保護する必要性が世界的に議論されている中で、さまざまな根拠が主張されている。伝統品種の数々は、数世代にわたって耕作される中で特定の環境に順応しながら、生産者たちの選択の末にできあがったものである。

    あらゆる環境条件に耐えるための多様な力を持ち合わせた伝統品種は、未来への可能性の宝庫である。環境が変化しても、別の既存種への転換や新しい種をつくることが可能だ。また伝統品種は栄養面でも優れ、所得創出、環境保護に役立つだけでなく、郷土料理、風習、ライフスタイル、社会的つながりに根付いた重要な文化的価値をも担っているのだ。

    金沢の伝統野菜が時の流れの中で消滅してしまいそうになった時、文化的価値観が救世主となったことがある。1950年代に起こった日本の経済成長の開始とともに、農業では収穫量が多く、形が整っていて、病気に強いという特徴を持つ新しい交配種への転換が始まった。生産的で場所を選ばす規格に合った野菜を生産する工業化した農業が奨励されていく中、金沢の伝統野菜は競争に負けて消滅する危機にあった。

    金沢の伝統野菜を保護する動きの立役者となったのが、種苗店の5代目、松下良氏だ。松下種苗店は1861年、北国街道沿いで創業した。北国街道は北陸から京都、伊勢神宮まで続く、日本海に沿って走る幹線道路である。創業当時、松下家の種の商人は種や情報を交換する伝統的な活動に加わった。店は旅人にとって便利な場所にあったので、日本中の種が金沢に集まり、地域特有の条件に合うものかどうか選別される関所のような機能を果たした。松下家の先祖に忠実であった松下氏は、種の収集を始め、1991年には加賀野菜保存懇話会をつくり、生産者たちに対して伝統野菜の種の保護と共有と栽培を勧めた。

    加賀野菜保存懇話会は加賀野菜の認定システムの設立にあたって重要な役割を果たした。金沢特産の32種類の野菜のうち、現在までに15種類が認定を受けている。これにあたり、すでに生産されている既存種のうち、経済市場で生き残っていける強さをもつと考えられるものだけが選ばれた。こうして認定を受けた加賀野菜には、知名度アップのための努力がさまざまな形で続けられている。地元だけでなく日本全国の市場に向けて売り出され、またウェブサイトを通して歴史や特徴に関する情報が発信されたり、需要を刺激するために料理のレシピも紹介されたりしている。

    新種の野菜はスーパーマーケットに行けば1年中いつでも手に入るが、加賀野菜は季節による自然のリズムに合わせて栽培される。色とりどりの野菜が畑でゆっくり熟してくると、その季節を楽しむ気持ちが高まってくる。夏は6種類の加賀野菜が収穫される季節だ。緑と紫の「金時草」や「赤ずいき」といった葉物、「打木赤皮甘栗かぼちゃ」、まるまるして光沢のある「ヘタ紫なす」、緑色で繊細な「加賀つるまめ」、土のついた「加賀れんこん」が、市場の店先に山のように積み上げられる。秋になり毎日が涼しくなってくると、これらの夏野菜は姿を消し、五郎島から伝わった赤い皮の「さつまいも」、白い「源助だいこん」、「金沢一本太ねぎ」、薄いとび色でつるつるとした「くわい」が並ぶ。冬の野菜には細長く柔らかい「せり」がある。そして若葉色に輝く「二塚からしな」、「金沢春菊」、「加賀太きゅうり」に加え、ずんぐりとした薄い色の「たけのこ」が春の訪れを告げる。

    加賀野菜は、土壌や気候や地形など金沢市独特の景観と密接に関係している。金沢一本太ねぎやヘタ紫なすは、市の南東に位置する丘陵地帯にある、白山の火山灰を含む土壌で栽培されている。また、さといも畑は海岸線に続く砂丘に広がっている。金時草は山々のふもとで栽培されているが、ふもとにある泉のしぶきから湿気を吸収し、昼と夜の激しい気温差のせいで葉の色をより深くしていくのだ。加賀れんこんやくわいは北東に位置する低地の湿地帯の土壌を好む。伝統野菜は土壌の自然条件に順応しているため、栽培に関しては化学肥料への依存度が低く、土壌保護に貢献している。

    伝統的な加賀野菜が危機にある原因の1つは、その栽培や収穫に、現代的な品種とは比較にならないほど多くの労力がかかることだ。例えばくわいは泥深い水田で栽培される。金沢一本太ねぎはとりわけ傷が付き易く、強風に弱い。こうした困難にもかかわらず、この地域に伝わる伝統料理の主役となる地元特産の野菜を、金沢の生産者たちは喜んで栽培し続けている。

    伝統野菜と地域の食文化の関係には、味に対するこだわり以上の文化的側面がある。金沢特有の加賀料理は有名であるが、これが文化的に重要な役割を果たしている。加賀料理という言葉は、加賀藩の藩主による豪華な加賀文化や和食の高級料亭のイメージを連想させるが、実は鴨鍋や鯛の唐蒸しなど、金沢の伝統的な家庭料理を広めるために紹介された新しい呼び方なのである。

    加賀料理は食べるという行為だけでなく、その背景にあるすべての積み重ねを大切にする。加賀料理の専門店は木造で、眺めの良い庭園をしつらえるなど古き良き日本の雰囲気を保っている。素材と器の選択や庭のデザインは、気候による季節のうつろいや自然の見せる変化と調和する。季節ごとの景観や趣を表現しようとするなら、加賀野菜が絶対に欠かせない。また金銀の豪華な装飾を施した金沢漆器や、料理が載せられる九谷焼の器にも季節ごとのテーマがある。こうした1つ1つの要素を大切にしながら、加賀料理は注意深く振舞われ、周辺地域の生物多様性と、歴史の中で盛衰を繰り返してきた文化的影響という2つの側面を表現する。

    金沢の畑や市場や食卓に、色とりどりの加賀野菜が欠かさずに並ぶ背景には多くの理由がある。それは、過去の味に対する郷愁の念からくる愛情、旅行者を惹きつける独特な料理、フードマイレージの活動やブランド化戦略に成功したことなど、挙げ始めればきりがないだろう。こうしたことからわかることは、食の文化的価値の影響で、農産物の特産品種が豊かになり、生物多様性の価値が安定的に維持されたということだ。私たちの食の未来は、生物多様性の役割を明らかにする工夫、つまり地元の生物多様性を大切にし、それを有意義なものとして生活に取り入れていけるかどうかにかかっているのかもしれない。

    文化と自然を祝う季節ごとの祭り

    真夏の暑い夜、湿気を帯びた重たい空気を包んでいるのは、土の香りとゆらめく炎と太鼓の音だ。金沢市周辺の農家では、害虫を追い払い豊作を願う「虫送り」の儀式が行われる時期である。日中は子供たちがのぼりを持って道を練り歩く。のぼりには、豊作や害虫駆除、繁栄や平和といった言葉が書かれている。日が暮れると、大人たちが太鼓とたいまつを持ってこの列に加わり、「五穀豊穣!稲虫送り!」と歌いながらあぜみちを練り歩く。夜通し続く太鼓の力強い響きは、害虫の大量発生を引き起こす悪霊を追い払うとされている。儀式も終わりに近づくと、パチパチと燃えるかがり火が炎上し、夜空に炎が踊る。

    「虫送り」は金沢の季節の移り変わりを表す年間行事の1つである。農薬の使用により害虫の突発的な大発生が収穫を台無しにする危険が無くなった現代の日本では、「虫送り」の儀式がほとんど行われなくなったが、真夏の金沢では田んぼの除草が終わる1番虫が多い頃、今でも「虫送り」が見られる場所がある。「虫送り」は農業の1年の中の中間期である稲の成育期と関係しているが、金沢の街周辺の農家の間で行われるさまざまな祭りは、このサイクルに基づいて行われるものが多い。

    春は植え付けの時期で、地元の神社はその年の豊作を祈願する地域の祭りの舞台となる。また秋祭りは感謝を表す意味で収穫の前後に行われる。日本全国どこでも同じように、こうした祭りは土地の守り神を召喚する意味合いを持つ。また土地の肥沃度や自然災害をつかさどるとされる自然神や祖先を呼ぶ祭りもよく行われる。人々は神輿を担いで練り歩き、その力を高め有利なはからいを得ようと、食べ物や飲み物や儀式で神をもてなす。

    年間カレンダーには、さまざまな季節の祭りが1つの時系列に並んでいる。こうした祭りの背景には、それぞれ異なる精神的な伝統がある。植え付けや収穫を祝う農業に関係した祭りは、多神教である神道の自然神と関係がある。その一方で、夏には1年で最も大切な仏教の祭りであるお盆がある。お盆は亡くなった先祖の霊を祭る行事だ。お盆には先祖の霊が現世に戻り、家に帰ってくるとされている。人々は郷里に帰って家族と一緒に過ごし、先祖の墓参りをする。先祖の霊を招くために家は掃除され、仏壇はきれいに飾られ、ちょうちんに灯がともされる。家庭の仏壇には食べ物と花が供えられ、経が唱えられる。寺の中庭や公共の広場には太鼓の演奏のための台が用意され、それを囲むように人々が輪になって先祖を迎えるための盆踊りを踊る。

    金沢の中心地ではお盆祭りは7月の中旬に行われるが、百年前から市の行政下に置かれている周辺の田舎では、旧暦に従って8月の中旬に行われる。この地域に伝わる慣習では、お盆の夜にはお墓で、切子と呼ばれる長方形の紙でできた小さな燈籠に灯りをともして霊を迎える。卯辰山や野田山は切子の燈籠の柔らかい明りで美しく浮かび上がり、街は盆踊りの曲と浴衣の擦れる音で満たされる。夏は自然と儀式の感覚的な遭遇の季節であり、金沢の文化的景観を形作っている。

    こうした毎年恒例の祭りや儀式は、広い世界観、宇宙の道理やその中に存在する現世といった概念の表れであり、現在と過去における精神的な伝統と信念の世界から生まれたものだ。その世界観や概念は、それぞれの地元の自然環境にある特定の生態系の中で発展していった。そして儀式の場、先祖崇拝、地域の祝い事の場として大切にしてきた自然と私たちの精神的な関係を通して、その世界観や概念は地元の環境に反映され返すのである。

    加賀の毛針:金沢の川と娯楽の風習

    ある晴れた夏の朝、山のふもとを流れる浅野川では、緑に囲まれ青々とした湾曲部に、1人の釣り人が釣竿を持って川の浅瀬を歩いているのが見える。ときどき銀色に輝きながら川面をはねる鮎を釣ろうとしているのだ。滑らかに弧を描きながら釣り糸を振り上げると、カラフルな釣針が空を切り、まるで柳の下の水面にいる本物の虫のように水面に落ちる。

    金沢における鮎釣り用の毛針の生産には長い伝統がある。近江町市場の近所で加賀毛針を製造販売する店は1575年に創業したが、現在の店主が9代目になる。この店を訪れるとまず目に入るのは、整然と並ぶ奇抜で鮮やかな色をした虫に似せたルアーだ。針の部分はカラフルな糸に巻かれ、鳥の羽で装飾されている。

    加賀毛針の製作の基本は、魚の行動や成長の段階、天気、時間、場所、気温、水の深さなどさまざまな要素を注意深く観察することである。この店ではざっと見積もって4千種の毛針を数百年の間に開発してきた。これらの毛針はそれぞれ、自然条件のいろいろな組み合わせに適合するように作られている。変化に富んだ色や形には、自然に対する知恵が詰まっている。鮎の嗜好や、長年にわたる水質や透明度の変化、川の水温などが考慮されて毛針の色や形は変えられる。

    加賀毛針の発達には加賀藩の武士が重要な役割を果たした。この地域の言い伝えによれば、かつては武士だけが鮎釣りを推奨されていた。それは、平和な時期が続いた江戸時代に、鮎釣りが精神と体を鍛えるのに良いとされていたからだ。かえしのない加賀毛針で鮎を釣るには、集中力とタイミングをはかるセンスが必要だ。武士は鮎釣りという娯楽に没頭し、毛針を改良してよりすぐれたものを作り上げていった。その結果、毛針は現在の金沢の希少な伝統工芸品の1つへと成長したのだ。

    金沢を流れる川もまた、街の歴史に影響を及ぼしてきた。川での娯楽の風習もその1つだ。犀川から見た様子を表現した19世紀の屏風には、菅笠をかぶって鮎釣りをする人の姿や、河原で弁当を食べる人々の姿が描かれている。このような川での娯楽は、加賀藩の命令によって一般の人々には禁じられていたため、ここに描かれているのは武士とその一家であろう。

    1868年に武家社会が終わりを告げると、金沢の川は全ての人に解放された。人々は水浴びや魚釣りを楽しめるようになり、釣ったばかりの鮎やゴリを河原でおいしそうに食べる夏の光景は、もはや特別なものではなくなった。20世紀初頭の古い写真には、水浴びをする人であふれた浅野川が写っている。また、夏の夜にはちょうちんを下げた納涼船に乗る船遊びも人気がある。

    現在では日本の比較的大きい都市にある川は、主要道路を作るためにコンクリートで囲われたり、屋根のように覆われたりしているところが多い。しかし金沢の川は昔のままにその魅力を放ち続けている。浅野川や犀川にかかる橋からは、流れの中に魚の影を見つけることができる。カモの小さな群れは水面を滑らかに進み、単独で行動するシラサギやオオアオサギは儀式のようなエレガントな動きで川の浅瀬を歩く。そして背の高い草地の上ではトンボが微動だにせずじっと浮いている。

    金沢ではさまざまな目的で川に入る人々を目にする機会が多い。冬の朝ですら、かつては浅野川で加賀友禅の染色職人が、色鮮やかな長い絹の生地についたのりや余分な染料を洗い流していたものだ。しかしこの光景は今ではほとんど見られなくなった。現在、川が最も魅力的で人々を惹きつけて止まない時期は、息詰まるほど暑い夏の季節だ。子供たちは教師と一緒に川に入り水生生物について学ぶ。夏祭りの期間に行う灯篭流しのために川の流れを導いて川底に石を積み上げる人々の姿もある。素足を川に入れて岩に腰掛ける恋人たちの髪をそよ風が乱していく。そして鮎の釣り人たちは刀を振りかざすような動きで虹色の毛針を空中に投げだす。

    何百年にもわたってさまざまな役割を果たしてきた金沢の川の景観は、食料と娯楽の場を提供してきた。そして今でも街の景観の中で美と豊かさを感じられる憩いの場であり続けている。そこで人々は自然の中に身を沈め、音を感じ、感覚を使って、生活を楽しんでいるのだ。

    ♦ ♦ ♦

    このページに掲載した映像はドキュメンタリー作品「金沢市の四季 人と自然の物語」の短縮版であり、記事はブックレット「金沢市の生物多様性」の抜粋です。いずれも国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニット(UNU-IAS OUIK)の構想・計画・出資による生物多様性に関するマルチメディア・プロジェクトの一環であり、OUIK所長(当時)のあん・まくどなるど氏がコーディネーターを務めました。このプロジェクトはOUIKの最先端の研究をクリエイティブな方法で「披露し」、日本だけでなく世界中の研究者、学生、政策決定者、一般市民に分かりやすい形で、都市化と生物多様性の関係性の複雑な側面を探究する試みです。