ヴェンダから歩んだ道:チリツィ・マルワラ国連大学学長とのインタビュー

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  • 2023年7月6日

    国連大学のチリツィ・マルワラ学長がキャリア形成に大きな影響を与えた自身の経験や、テクノロジーと持続可能な開発についての考えについて語ってくれました。

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    Photo: UNU / C. Christophersen

    南アフリカの田舎で育ち、外国で学んだ経験によって、自身のキャリアと世界の開発課題に対する見解は、どのように形成されましたか?

    私は、南アフリカのヴェンダと呼ばれる地域の出身で、ヴェンダは、世界で唯一ヴェンダ語が話されている場所です。ヴェンダ語はバントゥー語群の1つです。バントゥー語は基本的に南アフリカからケニアまでの地域で話されている言語のグループで、ニジェール・コンゴ語族に含まれます。

    ヴェンダは、マラリアを始めとするさまざまな理由から、最も西洋化が進んでいない地域であり、その点で南アフリカの他の地域とは異なります。

    アフリカは世界で最後に征服戦争が繰り広げられた場所の一つで、その中でもヴェンダの支配階級が従属させられたのは後々のこと、最後の最後でした。このことが、私自身と私の人生観を形成しました。

    私はいつも、南アフリカの中で自分が部外者であるかのように感じていました。ヨハネスブルグを訪れると、最初に聞かれる質問が「あなたはどこの出身ですか?」で、私が「ヴェンダ出身です」と答えると、「それは南アフリカの地域なのですか?」とまた聞かれてしまうからです。もちろん、その頃からは、状況はかなり変化してはいますが。

    私は、とてもしっかりとした家族に育てられました。私の両親は教師をしていて、私たちが暮らしていたのは母方の祖父母が所有していた土地で、祖父母ともに亡くなるまで一緒に暮らしていました。

    ヴェンダを出る前に一度イギリスに旅をしましたが、その時にかなりのカルチャーショックを受けました。

    私は17歳でしたが、初めてヨハネスブルグに立ち寄りました。飛行機に乗ったのも初めてでした。1989年、科学技術の国際フェアに参加すべく、イギリスに到着しました。それが、私が初めてアメリカ人と出会い、アメリカのアクセントを聞いた時でした。もちろん今では世界のテレビ番組などを視聴できるので、アメリカのアクセントをさほど外国風には感じないかもしれません。

    ですが、当時の私にとっては、それは異国のアクセントでした。1980年代には、(ヴェンダでは)テレビを見る機会がほとんどありませんでした。テレビを見ることが時折あったにしても、それはアメリカの番組が地元の言葉に吹き替えられたものでした。もし私が、俳優の誰かに会えるチャンスがあったとしたら、その人がヴェンダ語を話せないことにきっと驚いたはずです。というのも、テレビではまるで皆がヴェンダ語を話せるように見えたからです。

    イギリスへの旅は、色々な意味で決定的な瞬間でした。まずそれは、ベルリンの壁が崩壊するたった数週間前のことでした。冷戦終結の時です。そして、イギリスには南アフリカの亡命者がたくさんいて、もしかするとその頃が南アフリカの変遷の始まりだったのかもしれません。

    私たちが変化の瀬戸際に立たされていることは極めて明らかで、それは見るもの、聞くものからも感じられました。トラファルガー広場を訪れると、南アフリカ大使館の外で、変化を促す抗議デモが行われていました。それが、私が初めて世界を見た時だったように思います。そしてこのことから、私は南アフリカの外で学ぶことを考えるようになりました。

    「イギリスへの旅は、色々な意味で決定的な瞬間でした。初めて世界を見た時だったように思います。…南アフリカの外で学ぶことを考えるようになりました。」Photo: UNU / C. Christophersen

    ケープタウンで半年を過ごしていた頃、オハイオで学ぶようにと告げられました。オハイオ州のクリーブランドです。それまでオハイオという場所も、クリーブランドという場所も、聞いたことがありませんでした。ケース・ウェスタン・リザーブ大学の名前も聞いたことがありませんでした。とにかく荷物をまとめて南アフリカを発ち、アメリカに向かったのです。3枚の航空券を渡すと言われました。行き帰りの便に1枚ずつ、そして、家族の誰かが亡くなった時のためにもう1枚でした。しかし1枚だけなのですから、使う時をよく考えて選ばなければなりません。

    私は、機械工学を学びました。オハイオに着いたのは19歳の時だったはずで、それから4年間、オハイオで過ごしました。

    ここで、アメリカでの経験について少しお話ししますね。私はそこでどのような教訓を得たのか。当時、クリーブランドはとても国際的でした。クリーブランドは脱工業化都市であり、汚染という形であれ、倉庫などの豊富なインフラという形であれ、工業化の影響が色濃く残っていました。そして明らかに、社会的、政治的、経済的にもその影響は残っていました。

    以前、記事でも書きましたが、クリーブランドのある倉庫で開催されたUB40のコンサートに行ったことがあります。古い鉄骨の倉庫だったと思います。そこで私は、鉄鋼業の没落がもたらした失業と、UB40という名前に込められた皮肉を感じずにはいられませんでした。というのも、UB40とは実は、イギリスの失業給付金の申請様式から取った名前であり、産業の空洞化が社会や人々にもたらした影響の暗示でもありました。それを自分の目で見たこと、それは目を見張るような体験でした。

    “工業が社会にもたらす影響を理解することは、後回しにすべきことではありません。それは、ビジネスを行うということ、責任あるビジネスであることの、一部でなければならないのです。”

    私が学んだ教訓の1つは、工業化は良いことも多くをもたらすものの、その反面、悪いことも多く残すということです。そして工業化の次の段階においては、環境の問題を最前線に置かねばなりません。工業が社会にもたらす影響を理解することは、後回しにすべきことではありません。それは、ビジネスを行うということ、責任あるビジネスであることの、一部でなければならないのです。

    私がアメリカを後にして南アフリカに戻った時、南アフリカは過渡期を経験した直後でした。新政府が誕生したのです。私は、それまで持っていなかった南アフリカのIDを取得する必要がありました。

    また、このようなことを言う人もいました。「おい、君は、南アフリカが変わる最も大変な時期に逃げ出し、我々の労働の成果を手に入れようと帰って来たのか」

    しかし、改革はさまざまな形で起こるものです。社会を変革しようとするのなら、教育は重要です。

    そこで私は、南アフリカに戻り、半年間働いてから、プレトリア大学に行き、また1年半学びました。その後またイギリスに向かい、博士課程に通いました。人工知能(AI)の博士課程でしたが、当初は、自分が博士課程で何をするのか自分でも分かっていませんでした。それを見出すために多くの時間を費やし、「自分が南アフリカの発展のために役立ちたいなら、どんな道を進むべきなのだろう?」と自分に問いかけました。最終的に、私はAIの博士号を取ることに決めたのです。私はセントジョンズ・カレッジ(ケンブリッジ大学)に行きました。とても綺麗な大学でしたが、アカデミックガウンを着てダイニングホールに行くのは、ちょっとしたカルチャーショックでした。

    イギリスは、南アフリカの人々にとって興味深い場所です。歴史的に見て、イギリス政治の重要人物には、南アフリカに関連する人がたくさんいます。ベンジャミン・ディズレーリは、ズールー戦争でのイギリス側の損失を原因として選挙に落選しました。ウィンストン・チャーチルは、ジャーナリスト時代に南アフリカでの戦争で捕虜になっています。マハトマ・ガンジーは、イギリスを去った後、南アフリカへ向かいました。そして最終的には、インドで独立運動を指揮したのです。また、南アフリカの首相を務め、国際連合の創設にも尽力したヤン・スマッツは、デビッド・ロイド・ジョージの戦時内閣に属したこともあれば、ケンブリッジ大学の総長でもありました。

    ですから、南アフリカとイギリスの間には実に多くのつながりがあるのです。そして明らかに、その政治関係は複雑ですが、つながりがあるというのは良いことです。

    私はセントジョンズ・カレッジに3年間通い、博士課程を修了しました。そして、ロンドンのインペリアル・カレッジで、私の学者としてのキャリアがスタートしたのです。

    それでも私は、南アフリカに戻るのを待ちきれず、再び荷物をまとめてイギリスを後にしました。そしてここ22年ほどは、南アフリカで暮らしていました。

    人工知能が一般に広まる数十年も前に人工知能に関する博士課程を修了していますが、なぜAIの研究者になったのですか?

    そうですね、人工知能というのは実のところ昔からある言葉です。1950年代にアメリカでジョン・マッカーシーが作った言葉です。

    正直に言うと、人工知能を学ぼうというのはとても単純な決断でした。自分が何に取り組もうとしているのか分かっていませんでしたが、当時私の隣の席にいたのが、現在グーグル・ディープマインドでAIを研究しているナンド・デ・フレイタスで、私と彼は同時期に博士課程にいたのです。そこで私は、「ナンド、君は何の博士課程を取るの?」と聞いたところ、彼は「人工知能だよ」と答えたのです。それは何やら面白そうに聞こえました。そんな単純な理由でした。

    また、テクノロジーの視点で言えば、AIに関連した諸概念は統計学で学んでいたので馴染みのあるものでした。最適化についても工学で学びました。ですから、全く新しい分野に進むという感覚ではなかったのです。そして多くの面で、当時はより簡単な分野のように思えました。なぜなら、AIを学ぶ上で、必ずしも自分が学ぼうとすることの物理面を理解する必要はないからです。データなどを理解できればいいのです。

    私は、ニューラル・ネットワークについて研究しました。実際にニューラル・ネットワークという言葉を使う人はもう少ないかもしれませんが、ディープ・ラーニングについて話をするなら、それはニューラル・ネットワークの1つです。生物学的な脳に着想を得た巨大な神経回路網なのです。

    テクノロジーの現在の軌跡と、持続可能な開発におけるその役割については、どのように考えますか?

    教育の問題に目を向けると、テクノロジーが鍵だと言えます。地方の学校で、その分野の資格を持つ教師がいない場合、つまりキャパシティがない場合、学習にオンラインプラットフォームを利用して、教育を持ち込むことはできないでしょうか?地方の学校に、人々をつなぐことはできないでしょうか?

    また、テクノロジーはジェンダー平等の達成においても、重要な存在です。私たちが目にしている偏見がテクノロジーによって強められてしまうのはどんなときでしょう?例えば、アメリカのある大企業が、女性を区別するように履歴書を仕分けるアルゴリズムを使っていた、という記事を読んだことがあります。

    テクノロジーには、メリットとデメリットがあります。ですが、テクノロジーのメリットを挙げるなら、人間を修正するよりもテクノロジーを修正する方が、はるかに簡単だという点です。

    「人間を修正するよりもテクノロジーを修正する方が、はるかに簡単…です。」Photo: UNU / C. Christophersen

    もう1つ重要な問題は、「接続性」です。例えば、私は農家でもあり、鶏、牛、ヤギを育て、トウモロコシやスイカを栽培しています。しかし、農家であるということほど、私を謙虚な気持ちにさせてくれたものはありません。自分の農園を歩いているだけで、接続性がないがゆえに、自分がとても脆弱に感じるのです。私の地元では、ブラックマンバやパフアダーといったヘビが恐れられています。そうしたヘビを見て私が常々思うのは、「もしこのヘビに噛まれたら、どうやって1時間以内に助けを呼べるだろう?」ということです。それができなければ、もう生きていられないのですから。

    南アフリカの農家には、500ヘクタールもの土地を持っている人もいます。そこに誰かがやってきて、農場主1人と数人の作業者のために接続環境を整備してくれるはずがありません。ですから、接続性とデジタルインフラへのアクセスの問題は、とても重要なのです。

    そして、国連大学の役割はどこにあるのでしょう?不足部分はどこに存在しているのでしょうか?私が認識している不足部分は、きっと私の出身地での経験から見えているものですが、法律を制定している人たちがテクノロジーを理解していないということです。国連大学としては、法制化する必要のあるそれらの諸問題を、政策決定者が理解する上で役立つプラットフォームを提供する必要があります。そうした問題のいくつかは拡大していて、つまりは適応性の高い法律がさらに重要になるということであり、1年もしくは一定期間で問題が拡大していくさまを理解できる必要があるのです。

    これまでの人生で、もしくは現在において、あなたにとってのメンター(指導者・助言者)は誰ですか?どなたに刺激を受けましたか?

    私は、偉大な先生たちに恵まれました。私が成長する過程において、家族内でもコミュニティーの中でも、ロールモデル(模範となる人)に事欠くことはありませんでした。悲しいことに、その人たちのほとんどが既に他界しています。

    私の祖母は、私にとって間違いなく大きなインスピレーションを与えてくれたメンターでした。私の人生に強い影響をもたらした人です。祖母は、読み書きはできませんでしたが、とても賢い人でした。私はヨハネスブルグにいた頃に、何か腹が立つようなことがあると「もしおばあちゃんがここにいたら、もっと良い助言をしてくれるはずなのに…」といつも考えていました。しかし、私の周りにいる教育を受けた人たちは皆、読み書きのできない私の祖母がいかに賢い人であるかを理解していませんでした。

    祖母と一緒に叔母の家を訪ねる時は、6 キロほどの道のりを歩きます。山をのぼり、川を渡るのですが、祖母はよくこう言っていました。「川が脈のようになっているのが分かるかい?脈状になっていたら、そこを渡ってはいけないよ。水流が強く、流されてしまうことがあるから!」

    私の祖母は、私にとって最初の工学の先生でした。祖母はよく粘土の鉢を作っていましたが、トントンと叩いてはその音を聞き、こう言いました。「音が長く響けば良くできているし、音が短ければできが良くないんだよ」彼女は本当に優れたエンジニアだったのです。

    趣味は何ですか?

    まず、農業をすることですね。もう1つは、今住んでいるわけではないのですが、ヴェンダに帰郷するのが好きです。場所としてはヴェンダは私が育った土地ですが、今では、昔とは変わっています。人口は4倍くらいに増えていると思います。私たちがよく行っていた場所は、昔はただの森でしたが、今は人々が住んでいます。帰郷して、そうした場所を見て、その辺りの道をただ歩くのがとても好きなのです。

    日本での新しい生活で、自身や家族が一番楽しみにしていることは何ですか?

    これは新しい経験であり、価値あるものとなるでしょう。私の家族の生活を変えることになりますが、それは良いことです。私の家族は、実際に南アフリカから出て生活をしたことはありませんが、旅行にはよく行っています。休暇で、フロリダ、中東、ヨーロッパ、アフリカ大陸の他の国も訪れています。ですから、日本での生活も気に入ると思います。家族が日本語を話せるようになってくれたら嬉しいです。

    新しい経験というのは難しいものですから、私の家族もこの経験がスムーズに進むという幻想は抱いていません。私が初めてアメリカに行った時も、適応するためにさまざまな段階を経験しましたから。私は、まだそうした段階を日本では感じていませんが、それは、私が色々なところを「旅」してきたことが理由の1つだと思います。

    現代の若い人たちに何かアドバイスはありますか?

    私からのアドバイスは、世界は広く、その全体を見て世界を知る必要があるということです。私は常々、グローバル・サウスとグローバル・ノースについて話をしてきましたが、そのような区別が200年後にも存在しているべきではないと考えています。少なくともこれから200年のうちに、私たちを分断しているものが何であれ、そこに橋を架けなければなりません。ですから若い人たちが、世界はもっと広く、私たちは互いにつながり合っているのだと理解することがとても重要です。これはいくら強調しても、しすぎることはないでしょう。

    新型コロナウイルス感染症の経験は、私たちに、世界の一部で見過ごされた問題が、容易に私たち全員にとっての問題となり得ることを教えてくれました。私たちは、世界の他の地域から完全に距離を置くことはできないのです。結果として、国連のような国際機関が重要になります。個々の加盟国だけではなく、より大きなレベルで物事を考えられる組織が重要なのです。そうした組織は個々の加盟国で構成されてはいますが、平和の問題、気候の問題、デジタル格差を解消するという課題、開発における課題など、私たちの共通の利害の問題を扱っているのです。とても重要な問題であり、若い人たちは、これらの問題が私たちの共通課題であるということを常に理解しておく必要があるでしょう。

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    本インタビュー記事の原文(英語)はこちらからご覧いただけます。